人生100年時代

一億総活躍社会実現、その本丸は人づくり。(中略)人生100年時代を見据えた経済社会の在り方を構想していきます――首相官邸「人生100年時代構想」特集ページに、こう書かれています。いま人生100年と言われ、いよいよ定年後30年・35年をどうするか、というようなことが話題になることが増えてきています。

上記構想会議の第1回で安倍晋三首相は、「一人一人の能力を上げていく、一人一人が学びたい、仕事をしたい、その要求に応えていくことができれば。かつ、高齢者の方々は経験を持っている。その経験をいかしていくと新たな取組が可能となっていくのではないか。また学び直しをしていくことによって、新たな人生を歩んでいただくことによって社会に貢献していただけるし、あるいは、それぞれの人生が100年、もっと充実したものになっていくのではないか。このように思います」等と述べられたようです。

此の人生設計ということについて中国古典では、宋の朱新仲が「人生の五計」ということを唱え実践していました。その一つは「生計」で、之はどのようにして健康に生きて行くかということです。次に社会での処世術である「身計」、平たく言えば之は自分が一生どのように身を立てて行くか、即ち社会生活・社会活動を如何に行うかという計画です。それから「家計」、之はどういう妻を貰って、どういう家をつくり、親兄弟・親戚・朋友等と如何に仲良く付き合って行くかということです。そしてどのようにして年を取って行くかという「老計」、具体的に言えば定年が目の前に近づきつつあると思うと、どんな人でも一応は過去を振り返り、サラリーマンならば退職後の生活・設計を真剣に考えます。これから後が老計です。最後は如何に死すべきかという「死計」です。

「老計」ついて例えば安岡正篤先生は、『噛みしめて味わいが出る。物事にあまり刺激的にならないということ。これが老境の特徴であります。年をとるということは、あらゆる意味において、若い時には分からない、味わえなかったような佳境に入っていく・・・・・・これが本当の「老計」というものであります』と、『人生の五計 困難な時代を生き抜く「しるべ」』(PHP研究所)の中で述べておられます。

また同書の中で、『ともかく、「死計」とは即「生計」なんです。ただ、初めの「生計」はもっぱら生理的な生計であって、一方、「老計」を通ってきた「死計」というものは、もっと精神的な、もっと霊的な生き方であります。つまり不朽不滅(ふきゅうふめつ)に生きる、永遠に生きる計りごとであり、いわゆる生とか死とかいうものを超越した死に方、生き方、これが本当の「死計」であります』とも言われています。

上記した安岡先生の「永遠に生きる」という言は、理解が難しいかもしれません。要は一分一秒といった計数的な時間を超越して、「如何に生くべきか」といった自己の内面的要求に基づいて生きるのです。その生き方こそ永遠の今に自己を安立せしめることなのです。「如何に生くべきか」の工夫は、「如何に死すべきか」の工夫と同じことです。『葉隠(はがくれ)』に「武士道と云(い)うは死ぬ事と見付けたり」とありますが、日本武士の生き方は正に此の生き方を体現したものです。常に死を覚悟して毎日を生きる、換言すれば死ぬ気になって一生懸命に生きるということです。芭蕉が『花屋日記』で言っているように、「きのうの発句は今日の辞世、きょうの発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句々、一句として辞世ならざるはなし」と言っているのは、芭蕉が死を覚悟して日々真剣に生き切ったということをよく表しています。

『書経』の中にも「有備無患(備え有れば患い無し)」とあるように、やはり備えあれば憂えなしで昔から此の五計を考えるべきだとされてきており、私自身数年前からは、如何に老いて行くかという「老計」、如何に死して行くかという「死計」の二つを専ら考えるようになっています。

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