自衛権:個別的とか集団的という文言に力点を置く必要があるか?

陸自サイトより:編集部

私は、自衛権は国家の自然権であり、憲法に明記されていなくても当然ある、という立場に立っている。

いや、そういう自衛権もわが国は放棄したんだ、などと仰る向きもあるかも知れないが、自衛権の行使が禁止されてしまえば国家として存立することが極めて難しくなるから、私は自衛権が国家にあることを否定しない。

さて、集団的自衛権という概念は、国家の自然権としての自衛権の範疇にピッタリと納まるものかどうか。

私の疑念は、そこにある。

国連憲章は、第51条で「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国債の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」と規定している。

国連憲章のこの文言に依拠して、自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権の2種類がある、という理解が広まったのだが、国連憲章が制定されるまでは、自衛権と言えば個別的自衛権だけで、集団的自衛権なる概念が主張されたことはない。

国連憲章の規定をよくよく読むと、国連憲章のどこにも個別的自衛権とか集団的自衛権という文言もなければ、個別的自衛権及び集団的自衛権の定義もない。
あるのは、「個別的又は集団的」自衛の固有の権利、というだけである。

私が、あえて「国際法上の集団的自衛権」という文言を使用することがあるのは、自衛権を無理に個別的自衛権と集団的自衛権を分類して議論を展開されてきた先学にあえて異を唱えようという趣旨からである。

国連憲章で固有の権利として認められているのは、あくまで「自衛の権利」であって、「個別的」とか「集団的」というのは自衛権行使の態様を現わす修飾語でしかないのではないか、というのが、私の問題提起である。

現在の日本国憲法が成立した当時、日本は国連加盟国ではなかったのだから、憲法制定当時、国際法上の概念である「集団的自衛権」が議論の対象となったことはなく、そもそも憲法制定の議論の過程では「自衛権」そのものの放棄まで言われていたくらいである。

憲法学者や国際政治学者の方々は、様々な憲法論議を展開されているが、昨今の集団的自衛権を巡る憲法論議にはちょっと付き合い切れないな、というのが私の率直な感想である。私から言わせれば、あるのは国家の自然権としての自衛権だけで、「個別的」とか「集団的」という文言に必要以上に力点を置く必要はないのではないか、ということになる。

すなわち、「個別的」とか「集団的」と言っても、その境界は不分明で、当事国にとっては「個別的」だが、同盟国にとっては「集団的」ということもあり得るのではないか。
截然と個別的自衛権と集団的自衛権に切り分けることが出来ないのであれば、そういう概念をわざわざ持ってくるまでのことはないだろう、というのが私の意見である。

まあ、憲法論議は百人百様。

最高裁の確定判決が出るまでは、それぞれの立場でご自分の意見をご自由に開陳されておくといいだろう。目下のところ、どの意見が正しく、どの意見が間違っているとは言えないことは、確かである。

もっとも、私の意見を公務員試験の答案用紙に書いたら、罰点を付けられてしまうだろうが・・・。


編集部より:この記事は、弁護士・元衆議院議員、早川忠孝氏のブログ 2017年11月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は早川氏の公式ブログ「早川忠孝の一念発起・日々新たに」をご覧ください。