アジア通貨危機や山一破綻から20年、当時何が起きたのか

日銀の黒田総裁は「通貨危機から20年、これからの20年」と題する講演をアジア証券人フォーラム年次総会で行っていた。今年はアジアの通貨危機から20年目となる。

また、1997年11月24日に山一証券が経営に行き詰まり、自主廃業に追い込まれた。こちらも20年目となる。いったい1997年には何が起きていたのか。当時の状況を振り返ってみたい。

1997年4月に減税の財源として消費税の引き上げが実施された。財政構造改革と、この消費税の導入がその後の景気後退の要因とも指摘されたが、実際にはバブルの後遺症ともいえる不良債権処理の遅れがその大きな要因となった。

企業の破綻が相次ぎ、7月4日に東海興業、7月30日に多田建設、8月19日大都工業、9月18日ヤオハンが会社更正法の適用申請を行った。11月に入ると金融システム不安が一気に表面化し、3日に三洋証券が会社更正法適用を申請、17日には北海道拓殖銀行が経営破綻し北洋銀行への営業譲渡を発表した。さらに24日には山一證券が自主廃業を届け出、26日には徳陽シティ銀行が分割譲渡と金融機関が相次いで破綻したのである。

三洋証券の破綻の際に、コール市場での小規模なデフォルトが発生した。金融機関同士で取引しているコール市場という信用の上で成立している金融市場の中で、戦後初のデフォルトが起き、これが他の金融機関破綻の引き金となったのである。信用リスクと流動性リスクの増大により、金融システム不安が一気に高まった。

日本の景気悪化によって進行した円安と米国の強いドル政策が、ドルと自国通貨の為替レートを固定するドルペッグ制を採用していたアジア各国に悪影響をもたらしていた。1997年5月にタイの通貨バーツの暴落を皮切りに、アジアの新興諸国の通貨が連鎖的に暴落し、東アジア全域の経済が大混乱に陥る。

1990年代に入り外為取引の自由化が実施され、資金の移動が活発化した。米ドルと連動相場制(ドルペッグ制)を採用していたこれら通貨は、ドルが低位で安定していた際には高金利政策で資金を流入させていたものの、1995年以降のアメリカによる強いドル政策により、ドル・ペッグ制を採用していたアジア諸国の通貨も上昇し、通貨高により輸出が伸び悩むなど経済への影響も出てきた。この通貨高と景気悪化というギャップに目をつけたジョージ・ソロスのクオンタム・ファンドなどのヘッジファンドにタイ・バーツなどの通貨が狙い撃ちにされ、この仕掛け的な売りに耐えられなくなり、アジア諸国の通貨が暴落したのである。

これを受けて東アジア各国の株は急落し、成長率は軒並みマイナスとなり、企業倒産や失業が急増した。これに対しIMFを中心とした国際金融支援が特に経済に大きな打撃を受けたタイ、インドネシア、韓国に対して実施されたのである。


編集部より:この記事は、久保田博幸氏のブログ「牛さん熊さんブログ」2017年11月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。