中国の唐の時代の後期には、茶・塩・絹などの遠距離取引が盛んになるなど商業の発達に伴い銭貨の搬送を回避する手段として「飛銭」と呼ばれた送金手形制度が発生した。高額商品の売買には銭貨の「開元通宝」などでは量がかさんでしまう上、途中での盗賊などによる盗難の危険もあった。このため、長安や洛陽などの大都市と地方都市や特産品の産地などを結んで、当初は民間の富商と地方の商人との間によって「飛銭」という送金手形制度が開始された。
これはたいへん便利なものであるとともに、手数料収入に目を付けた節度使(地方の軍司令官)や三司(財政のトップ)などもこれを模倣した。飛銭を利用する際に使われた証明書(預り証)が、宋代になると交子・会子・交鈔・交引などと呼ばれ、証明書それ自体が現金の代わりとして取引の支払に用いられるようになった。特に四川地方で発行された交子は世界史上初の紙幣とされている。
紙幣はたいへん便利なものであったことで、その需要が増え、それに目をつけた政府は軍事費に当てるための財源として交子を乱発し、その価値を失ってしまった。政府に発行をまかせると紙片を乱発しかねないのは歴史が証明している。その後、新たな紙幣を発行するものの、やはり信用を落としてしまい、最終的には銅銭が復活することになった。
しかし、なぜ中国で世界最初の紙幣が誕生したのであろうか。貨幣の材料となる貴金属などの産出が限られていたこともあるが、宋や元の時代の国家権力が強かったことも要因であろう。それとともに遠隔地との交易など商業の発達がそれを促したものといえよう。忘れてならないのは、紙そのものが中国で発明されたものであり、さらに印刷術も発達していたことが、紙幣の発行を可能にしたといえる。マルコ・ポーロの「東方見聞録」には、元で通貨ではなく紙幣で買い物をする様子を見て驚く場面が登場する。
日本における現存する最古の紙幣は、1610年に伊勢の山田において、支払いを約束する預り証の形式をとって発行された山田羽書(はがき)とされる。
伊勢神宮に仕える有力商人が、高い信用力と宗教的権威を背景に、釣銭などの煩わしさを少なくするために発行された紙幣であり、額面金額も銀1匁以下の小額となっていた。形や文様が統一されたことで、不特定多数の人々に交換手段として利用が可能なように作られており「紙幣」として利用されたのである。
世界で最古の紙幣は10世紀に四川地方で発行された交子とされるが、日本はこれに次いで世界で二番目に古く紙幣を発行していたことになる。
その後、私札は伊勢国、大和国、摂津国など近畿地方を中心に、有力商人がその「信用力」を元に発行し、室町時代末期から江戸時代初期にかけて約60年の間、流通した。
こうした私札に目をつけた各藩が発行したのが「藩札」と呼ばれる紙幣である。藩札の最初は1630年に始まった備後の福山版のものと言われているが現物は残っておらず、現存するものとしては1661年の福井藩の札が最古のものとなっている。
私札も藩札も江戸時代後期まで、ほとんど銀立の額面で発行されていたが、これは西日本では銀が経済の主流であったことが要因である。
紙幣については乱脈な発行によるインフレへの懸念とともに、偽札の問題が生じる。世界で最初に紙幣を発行した中国では、偽札防止のため細かな文字や文様などを組み合わせ簡単には真似のできない工夫がされていたが、日本の藩札も同様に色刷りや透かしなどが実用化されていた。1856年に浜松藩が出した銀札にはオランダ語を入れるなどの工夫も行っていたのである。
編集部より:この記事は、久保田博幸氏のブログ「牛さん熊さんブログ」2017年12月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。