「若い」ことが侮蔑語となる、日本社会の今

篠田 英朗

私が一年半ほど前からブログを書いているのは、『集団的自衛権の思想史』という本を書いてみて、少しは普通の日本人の方向けの話ができるかな、と思ったからである。ようやく幾分かの反応をいただいているが、その内容を見ると、複雑な思いにかられざるをえない。

現在、『平和構築人材育成事業』研修をやっているので、連日にわたり朝から夕方まで、世界中から集まってきている25名の研修員たちと、南スーダンやらマリやらの話を題材にした英語で議論をしている。ほとんどが海外から呼んでいる国連職員など30名弱の方々をファシリテーターとして数週間にわたって運営する研修で、多様なシミュレーションの筋書きなども私が責任を持っているため、けっこう夜中まで頭を悩ませたりしている。

それでも少し合間を見て、息抜きにブログの様子などを見ることは見る。そうすると、自分がいかに日本社会から乖離したところに暮らしているかを感じて、複雑な思いになってしまう。世界の現実から、日本はあまりに乖離している。もっとも、それでも日本という社会はなんとか成立はしてはいる。人口を減少させ、国力を停滞させながらも、なんとか日本社会は維持されてはいる。

だが本当にこのままでいいのか。このままでも、本当に日本の未来は、大丈夫なのか。

前回のブログの後、弁護士の早川忠孝氏が、私の文章についていろいろと反応していただいていたのに、ようやく気付いた。正直、早川氏は、私の著作はおろか、ブログレベルの文章についても真面目には読んでいないようなので、早川氏が書いていることについては、最早あまり関心がわかない。だが、印象に残ったのは、次の表現である。

「それにしても、篠田さんはお若い。面白いことを言われる方ではある。」

実は私は49歳なので、「若い」と言われるのは冗談にもならない。少子高齢化社会の日本の現実をふまえたブラック・ジョークではあるかもしれないが、真面目な描写ではない。だがそれにもかかわらず「篠田は若い」と言ってみることに、いったい何の意味があるのか。

「戦前の復活」「ナチスの再来」「軍国主義へのいつか来た道」・・・・半世紀以上にわたって使い古されてきた陳腐な表現でしか他人を批判できないのは、ちょっと問題ではないか、と憲法学者らを批判しているのが、私である。その私に対して、憲法学者の方々は、あえて「三流蓑田胸喜」「ホロコースト否定論者」といった正面突破の言葉を投げかける。

私は「面倒なことは存在していないことにしよう」という価値観を振り回すのは、大人の姿勢でも何でもない、既得権益の維持だけを狙った単なる思考停止ではないか、と主張している。その私に対して、「若いな」という正面突破の言葉で否定してみせようという人がいる。正直、暗澹たる気持ちになる。

若いとか、年寄りとか、そんなことは関係がない。護憲派とか、改憲派とか、そんなことは関係がない。リベラルとか、保守とか、そんなことは関係がない。親米派とか、反米派とか、そんなことは本質的な問題ではない。

自分が生きている社会を、もう少しだけでもいいので、良いものにしたい。そのために、相手の人格を尊重し、意見を受け止め、真摯な気持ちで対応しながら、頭を悩ませて、自分の意見を顧みながらも、他者の意見についても検討する。そういう素直で普通の生き方が、なぜ現代日本では、簡単にはできないのだろうか。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年2月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。