朝日と安倍の憎悪のルーツは緒方竹虎だ

八幡 和郎

首相官邸サイトより:編集部

朝日新聞 VS 安倍晋三首相の「10年戦争」などと言われる通り、両者は互いに敵意を隠すことなく戦い続けています。

これまでも自民党政権と朝日新聞との関係は冷ややかでしたが、その実、どこか互いに本当に痛いところは外すような馴れ合いがありましたが、今度は、それがありません。

いったいなぜ、これほどこじれた関係になってしまったのか、普通では理解できないことでしょう。

私は、本来は体制派的な新聞である朝日新聞が、同社元社員から政治家に転身したOBたち、つまり緒方竹虎(1888-1956年)や河野一郎(1898年-1965年)の死、そして細川護煕の失敗によって、政界の権力中枢を握ることに失敗してきた蹉跌にその原因があると見ます。

緒方竹虎(Wikipedia:編集部)

そのことを月刊「新潮45」の二月号に「朝日新聞と岸家、積年の怨み」という記事にして載せたのですが、こんどはそれを2月26日に出る、『「立憲民主党」「朝日新聞」という名の〝偽リベラル〟』(ワニブックス)という新著にも少し書き直して所収していますが、その概要を紹介しておきましょう。

戦前の朝日新聞では、創業家の婿養子であった村山長挙社長と、「筆政」と俗称される地位にあった福岡出身の緒方竹虎が厳しく対立しました。

緒方は米内光政首相の盟友としてこれを支え、近衛文麿首相のブレーン組織「昭和研究会」に、朝日新聞から前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実らを送りこみ、自身も新体制運動に積極的に関与しました。

緒方自身はリベラルな思考の持ち主でしたが、福岡出身であることから頭山満や中野正剛などと交流が深く、右翼に顔が利いたことから、戦時体制に協力しつつ、新聞社の存続と最低限の自主性を確保したのです。

そして、盟友だった中野正剛が東條英機首相との対立から自殺したことで東條と正面衝突し、東條倒閣運動や終戦工作に関わることになったのです。

1944年7月、小磯國昭内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣するために朝日新聞を退社した緒方は、終戦に伴って成立した東久邇宮稔彦王内閣では内閣書記官長(現在の官房長官)に就任。朝日新聞関係者を閣僚はじめ内閣秘書官や内閣参与に大量に参加させ、「朝日新聞内閣」のごときものになりました。

この時、緒方が促進したのが「戦争責任は一部軍国主義者、特に陸軍にあり」という路線でした。この路線の延長線上で、東京裁判では海軍から死刑とされる者は出すことがなく、昭和天皇も責任を問われずに済み、朝日新聞なども存続を許されたのです。

ただ、こうした緒方への反感も強く、緒方自身も1945年12月にA級戦犯容疑者の指名を受け、翌年8月に公職追放されることになりました。ところが、緒方は健康状態が良くないということで巧みに収監を免れ、追放解除に備えて比較的自由に過ごすことができました。

緒方は追放解除後の1952年に、中野正剛の地盤を引き継ぐ形で福岡県から立候補し当選、第四次吉田茂内閣で国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総理となり、吉田首相から後継者と見なされるようにまでなったのです。

この頃から、アメリカ政府は緒方がポスト吉田として信頼に値する人物だという認識を持ち、彼から情報を得るとともにCIAが資金面でも積極的に支援したようです。ただし、アメリカに有利な政策を採らせようというよりは、緒方の考え方がアメリカの利益に合致するという判断だったというべきです。

保守合同のあと、鳩山首相が続投。早期に緒方に禅譲することで話し合いがついていたのですが、それが実現する前の1956年、緒方は急死してしまいます。このあと岸が浮上した大きな理由に、緒方を失って期待する首相候補をなくしていたCIAが、信頼できる反共主義者として岸を援助したことが挙げられます。

岸が東條内閣の閣僚であったことは引っかかりになったものの、後に倒閣に追い込んだことが免罪符になりました。また、冷戦下にあって、日本が日米安保を改定してパートナーとして役割を果たしたいときっちりとしたビジョンを示したことが好感を持って迎えられたのです。

そもそも、緒方と岸の考え方も人脈もかけ離れているわけではないのですが、交差することは少なかったようです。緒方はリベラルな理想主義が根底にありますが、現実との妥協も厭わないというタイプ。それに対して岸は、開明的な合理主義者ですが、青臭い民主主義など端から馬鹿にしていました。ただし、現実問題として選挙で支持されなければ力をもてないということは理解し、官僚から大臣になった東条内閣では必要もないのに故郷である山口から選挙に出馬しました。

つまり、緒方はリベラルだが保守派に柔軟に妥協し、岸は権威主義的だが民意を得ることを重要視し、結局のところ、やっていることは同じようなことだったわけです。

緒方が首相候補といわれた時、朝日新聞の後輩たちは緒方を積極的に応援しました。といっても、社内には労働組合に基盤を置く左派も多かったのですが(例えば、後に社長となった広岡知男は労組指導者から出発しています)、創業家との調整に当たって左派的なジャーナリストを擁護したのが緒方でしたから、彼らの緒方への信頼は厚いものでした。

ですから緒方が首相になって憲法改正をしようとすれば、それを妨害したとは思えません。しかし、緒方の死後、安保改正を強引に進める岸首相に対しては、あからさまな反対を朝日新聞は示しました。

こうしたことから、朝日新聞は与党内に期待するものがなくなり、思いっ切り反政府路線に突っ走ることになったのです。
とはいえ、自民党政権も、朝日新聞などと正面から対決しなかったので、矛盾は顕在化しなかった。ところが、安倍首相は、10年前の「NHK慰安婦番組改変要求事件」で朝日新聞から安倍が不当と感じる批判を浴びたこともあり、正面対決を厭わないので、すっかり、朝日も調子が狂ってしまった。

緒方竹虎と岸信介という、戦後の二大政治家の対決についての消化不良は、半世紀後に、安倍首相と朝日新聞の正面対決に発展したというわけです。