先月14日アゴラに「若いうちに専門を絞ることはスポーツでもビジネスでも弊害あり」という記事がありました。「スポーツマーケティングコンサルタント」の筆者は当記事で、「スポーツ界で活躍するために、スポーツビジネスを高校や大学で学ぶ必要が本当にあるのか? 僕は必ずしもないと思います」等の指摘を行われています。
先ず基本的な考え方として、人間どういう才がどれだけ有するかを見極めるは難しく、そう簡単に分からないことだと思います。『論語』に孔子が弟子の冉求(ぜんきゅう)に対し、「今(いま)汝(なんじ)は画(かぎ)れり…今のお前は初めから見切りをつけているではないか」(雍也第六の十二)と怒る章句があります。自分の能力を自分で限定し自己規定してしまうとか、あるいは途中で諦め出来ないと思い込んでしまうとか、そういった形で限ってしまうケースは結構あるのではないでしょうか。
4年前のブログ『「6・3・3・4」制の見直しについて』等でも指摘した通り、例えばJewishは個々人の才能を早く見極めて、その才能に特化した教育を徹底的に行い、様々な分野における天才を養成しています。此の人間は何処に天賦の才があるか、とある意味ずっと見て行ける人でないと一人前の学校の先生でない、といったところがある位です。こうしたJewishの教育観の如く、やはり親も先生も「この子にはどんな才能があるのか」を出来るだけ早く見い出し、その才能を伸ばしてやるということが第一だと思います。
第二に、親にしても先生にしても「この子は何が本当に好きなのか」をよくよく見て行く必要があります。才有りと思われても、嫌いなことは長続きせず、本人の努力が続かなければ、それはそれで終わりになるわけです。そういう意味では親も先生も、その才能が本物であると思えばこそ、それが好きになるよう如何なる教育が施されるべきか、と持って行ってやらねばなりません。
そして「この子にはどんな才能があるのか」と「この子は何が本当に好きなのか」が同一の場合、出来るだけ早い時期から一芸に秀でるようして行くのが本来の教育の在り方だと思います。Jewishはそうやってノーベル賞やフィールズ賞、あるいはアカデミー賞最優秀監督賞等々の輩出率で傑出した地位を占めるに至っているのです。
それから最後にもう一つ、才を開く上で非常に大事だと思うのは、本人に好きなものを選ばせるという部分です。当ブログで嘗てイチロー選手の言葉、「今自分がやっていることが好きであるかどうか。それさえあれば自分を磨こうとするし、常に前に進もうとする自分がいるはず」を御紹介しましたが、やはり自分自身で好きにしたことは中々諦めず、何より楽しくやって行くわけです。『論語』に「これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(雍也第六の二十)とあるように、楽しんでやれるようなることが才能開花の一番の近道になって行くのだと思います。
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