「日中関係は改善」との宣伝について

1月28日の日中外相会談(外務省サイト:編集部)

河野外相の訪中、そして年内の李克強首相の訪日予定と政治スケジュールが続き、日中の両国政府からはさかんに「改善」のアピールが行われている。メディアはそのストーリーを安易に信じ込み、政治宣伝の片棒を担ぐ。これまで何度も繰り返されてきた茶番劇だが、記者も担当がコロコロ変わっているので、過去記事をなぞる金太郎あめのような報道が垂れ流される。膨大な公共財のロスである。

もっとも、報道機関に負わされてきた公共財としての責任はすでに希薄化し、今やインターネットを中心とする新たな言論空間において、いかに個々人が公共の場を築いていくかが問われている。各自が目を覚まさなければ、ネット空間は本来持っていた自由や平等、公開の価値を失い、大半の人々は足場を奪われ、ごく一部の権力と利益に操られる漂泊の民となるしかない。身体性を動員した想像力が試される。

2012年秋、尖閣諸島の領有権をめぐる紛争で、メディアにおいては「日中関係は戦後最悪」だとさえ言われた。政治の失策が招いた衝突に、庶民が動員され、多くの人たちが心身ともに傷ついた。その責任について、政治家は謝罪もしていないし、釈明さえも拒んでいる。この間、日本メディアは習近平国家主席の表情をうかがう読唇術に夢中で、「怒った」「笑った」とあきれるような分析を行ってきた。いきなり「改善」と言われても、こちらは戸惑うばかりだ。なにがどう改善され、個々人のレベルにおいてどのような影響があるのか。まったくの説明がないのだから。

政治のご都合主義を物語る端的な例を一つ示そう。

2014年11月、APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議出席のために北京を訪問した安倍首相と、習近平国家主席との日中首脳会談が2年半ぶりに行われた。そのお膳立てとして、両国政府が水面下で尖閣問題を中心とする4項目の合意文書を交わし、首脳会談は本題に言及することを避けた。姑息な知恵によって実現したものだ。同行の日本記者団は、対中外交の「成功」を迷いもなく報じた。その直後、安倍首相は衆院解散を決めた。対中関係改善を求める財界を意識した露骨な選挙対策だった。

4項目で最も重要な領土問題は、「双方は釣魚島(尖閣諸島)など東シナ海海域で近年来出現している緊張情勢をめぐり、異なる主張が存在することを認め……」とある。役人が練り上げた玉虫色の表現について、いったいどれだけの両国国民が理解しているだろうか。民意不在、政治都合の解決は、韓国の慰安婦問題が示すように、将来にもっと深い禍根を残すことになる。

「日中関係は最悪」と言われた2012年当時、私は北京で特派員をしていたが、現地で暮らす日本の駐在員たちと同様、こうしたメディアの枕詞に違和感を持っていた。そこで、同じ気持ちを共有している新聞・通信・テレビの仲間に呼びかけ、『日中対立を超える「発信力」──中国報道最前線 総局長・特派員たちの声』(2013年、日本僑報社)を、さらに中国で仕事をしている経済関係者約30人を集め、『日中関係は本当に最悪なのか?――政治対立下の経済発信力』(2014年、日本僑報社)を出版した。後者は中国語版も発行された。

日中関係というと、みなが政府間の関係を想像するが、現場でかかわる者たちにとっては、日々、身体の目の前で接する現実が日中関係である。仮想の国家関係はしょせん、バーチャルなゲームに過ぎず、リアルな関係は生活の場にこそある。想像によって形成される国家の壁は厚く、高いが、生活の場を土台としない限り、個人が政治に利用され、騙され、翻弄される運命から逃れることはできないと考える。

中国での暮らしも13年目になるが、政府関係の「悪化」や「改善」によって、自分の生活が変わったと思えたことは一度もない。むしろ、それとは逆の経験をすることが多い。「悪化」が騒がれる中で、親密になることもあるし、「改善」の裏で、日本人への悪感情に接することもある。その都度、一つ一つの出来事を乗り越えていくという形でしか、根源的な人間同士の関係は築けないのだと思う。いつも降ってわいたように語られる「日中関係」は、頭の中で描いただけの仮想でしかない。心に響いてこないものは、長く人の記憶にも残らない。

日本人は誤解しているが、中国人の多くは国家や組織よりも個々の人間関係を重んじる。公私を巧みに使い分ける賢さを身につけている。企業や組織の人間として立ち振る舞えない国とは大きく異なる。だからこそもっと、国家の大きな物語から解放された、個人の小さなストーリーを大切にすべきだと感じている。要するに、タコ壺に逃げ込んで傍観者にとどまるのではなく、自分に何ができるのかを考えることが肝要である。

パンダが国家関係を変えてくれるはずもなく、政治家の利益によってどうなるものでもない。そんな隣人関係が築かれることを切に願う。そのときにはきっと、「悪化」や「改善」といった浮ついた言葉も、もはや使われなくなるに違いない。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年3月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。