テレビの役割

日経新聞のインタビュー記事『ロシア国営テレビ編集長「客観的報道は存在しない」』(18年2月22日)で当該編集長は欧米の主要メディアに対し、「ウソを広げている」とか「画一的な論調を流している」あるいは「情報機関の広報になっている」と批判していました。

昨今フェイクニュースということが盛んに叫ばれるようなったわけですが、その信憑性に疑義あるものが随分と出回ってきているように感じます。嘗てより遙かにフェイクニュースは伝搬し、人に誤解を持たせたり虚偽を真実と思わせたりするような事象が、非常に増えている世の中になってしまいました。

取り分けインターネットで取れる簡単な情報で、所謂フェイクニュースが平気で流れています。しかし、その発信源に対する責任追及は実効性がないものであります。一種の情報洪水下、真面なニュース・論説・見解といった類を如何に峻別して行くかが課題となっており、誰しもその選択で大変苦慮している部分があるのではないかと思います。

他方、5日前にも「ネット事業者の放送参入へ規制緩和検討 放送法4条見直し焦点に」(@nhk_news)をリツイートしておきましたが、日本のテレビ放送開始から65年を経て今、多岐に亘る大胆な改革が望まれているということでしょう。

テレビ局は大衆をして「一億総白痴化」への道を歩ませるのでなく、劣化の一途を辿る番組の質を改善し、馬鹿の一つ覚えのように各局が同じニュースばかりを司会者だけを代えて放送する画一的な報道状況等を見直す中で、国民をより知的に高い方向に誘導して行くよう改めるべきだと思います。

メディアの最重要の仕事は、物事を正しく伝えるということです。その為には、それなりの良識・見識を有した人にコメントをさせねばなりません。しかし現況を見るに、それらの欠片も無いような人間が多数番組のコメンテーターを務めており、その言に驚き呆れ果てることが多々あります。

彼等は物をコメントするに物知り顔に語っているけれども、それは聞くに堪えずwaste of timeも良いところです。局として彼等をコメンテーターとして引っ張り出してくること自体、先ず信じ難いのです。私は、コメンテーター足るの良識・見識を十分備えていないと思われる人が出ている場合、チャネルを変えるか直ぐにテレビを消しています。

勿論コメントの在り方としては同一方向のものばかりでなく、「なるほどなぁ」と思わせる切り口で多様なオピニオンが展開されるべきでしょう。例えば今回の「森友文書問題」でも反現政権一色の報道姿勢ということで、違ったオピニオンの追究も為されるべきではと思うのです。

それで言うと政党間の討論は割合対立的ですから、それはそれで一つ互いの主張を強調する意味では良いのではないかと思います。何れにしても、多かれ少なかれある程度の教養や知識を持った方々が、様々な物の見方・考え方を紹介するというテレビとして非常に重要な役割一つが、現況果たされていないというのが多数の人の認識ではないでしょうか。

今後益々テレビの視聴時間は、ネットに置き換わって行くことでしょう。ネットであればある意味この人というものをフォローし、ブログでも動画でも何でもその人のオピニオンが聞けます。そしてまた嫌であれば単にオミットしたら良いだけである一方、所謂地上波と称されるものは余りに画一的かつ御粗末な番組が多いですから、下らない話だと思いながら、正にkill-time(暇つぶし)で見ることになるわけです。

私自身はと言うと、最近はニュースや科学的な番組の一部を除き基本テレビを見ませんが、テレビガイドを見てNHKの幾つかの番組やBSで質の高そうな番組がありそうであれば、録画をして時間のある時に見るようにしています。

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