Sけんって遊びを知っていますか?
昔からある群れ遊び。最近、教職員の研修で「この遊び知っていますか?」とお聞きしても知っている人は5分の1ぐらい。子供の場から消えてきている遊びかもしれません。
それはこんな遊び。
ルールはこうです。
文字面だけではどんな遊びかわかりにくいですね・・・
youtubeとかに動画ないかなあ。あ、幼児のがあった。
なかなかいい感じ。
エルマーSけん
はげしくていい。
何年生を担任しても、1週目にぼくは必ずこの「Sケン」のやり方を伝えていました。
何年生を担任しても、1週目にぼくは必ずこの「Sケン」のやり方を伝えていました。
最初は恐る恐るやり始めます。
思いっきり押したり、ひっぱったり、つっこんだり、倒したり、そういう体験が子どもたちの日常から消えて久しい。びっくりするわけです。
「痛い!!」
膝がすりむけたりもします。引っかき傷ができたりも。
「イワセン!思いっきり倒されたんだけど!」
「まあ、そうだろうねえ、そういう遊びだから」
「めっちゃ痛い!」
「まあ、そうだろうねえ、そういう遊びだから」
まあこんな会話が繰り広げられます。
でも1週間もすればもう夢中。
1時間でも2時間でも平気で続けるようになります。時間を忘れて没頭する体験。(もちろん「見学」という参加もOKです)。
なんでこんなに痛いのに夢中になれるんでしょうか。
宝を取るために突っ込んでいくには、倒されるというリスクがある。リスクがあるから楽しい。燃える。
全力を尽くさないと宝を取れない。守れない。つまり全力を尽くせる。
どんな風に参加するかは自己選択的である(守り手をするもOK。攻め手をするもOK。一人で攻めるもOK。作戦を練って協同するのもOK)。
勝ち負けの結果よりもプロセスが楽しい。
ルールは楽しく遊ぶためにどんどん改変していっていい。(「遊びたい!」という思いが、結果として自制を学ぶ機会ともなります。「痛いからやめた!」とか「ズルしたからやめた!」とかいって抜けてしまうと、結局自分がつまらなくなるのです)
なんといっても能動的。アクティブです。
怪我をするのが心配という声を聞きます。
小さな怪我はたくさんします(断言)。
どこまでが安全でどこまでが危険かは、体験的に学ぶほかない側面があります。
もちろん「グーで殴らない」「後ろからの不意打ちは、首がガクッとなるのでしない」等々最低限のルールは必要ですが、
「爪を立てない」「服は引っ張らない」等々はやりながら自分たちでルールを作っていけばいい、そう思うんです。自分たちで自分たちの安全を守るれるようになること。これはすごく大事なこと。
(もちろん、保護者会等で、なぜこの群れ遊びをやるのか。その魅力とリスクは何かも共有しておくといいですよね)
22年間、毎年Sけんをやってきましたが、不思議と大きな怪我はありませんでした。
最初の2週間ぐらい付き合えば、あとは校庭にSの字を書いておくだけでOK。
やがて、自分たちでSも書き始めて勝手にやり始めます。
何を隠そう、ぼくは一番ムキになって参加するわけですが(大人気ない=称号)、仕方がないので、ゆるやかに消えていく(参加しなくなる)ようにしていきます。大人の目がない中で遊ぶのすごく大事だと思うから。
放課後、ふと校庭を眺めると、集まった異年齢のメンバーでSけんに興じている姿に、よく出会いました。
小さい子が泣いてしまって、水道に一緒に傷を洗いにいく上級生を見ると、ああなんとも大事な光景だなあと思うんです。
ルールもどんどん変わっていきます。
小さい子が入った時は、生き返る回数が多かったり。そうやって「どうすればみんなが楽しいか」と調整していくのです。
ルールを作る体験は遊びの中だからこそ真剣になれます。いいルールにしないと自分が楽しくないから。
そもそも学校が子供の遊びを担う必要があるのか、という議論はあると思います。
学校が扱った時点でそれはもはや「遊び」とは言えないのではないかという指摘も最もです。
以前、石川晋さんがぼくの授業を見にきてくださった時、休み時間のSけんを2人で眺めながらそんな話をしました。
(参照:石川さんのブログ)
結論から言えば、子どもの遊びの場と価値を、学校で十分に保証する覚悟が必要だと考えています。
今話題の、非認知能力。これを直接的に「教えよう!」というのはアプローチとしてやはり筋が悪いわけで、そのための芳醇な原体験は「遊び」の中にあります。それを保証せずして、なにが非認知能力だ、と思います。
では学校を場にした遊びってなんでしょう?
ピーター・グレイは遊びの特徴を5つに要約しています。
1、遊びは、自己選択的で、自主的である
2、遊びは、結果よりもその過程が大事にされる活動である。
3、遊びの形や規則は、物理的に制約を受けるのではなく、参加者のアイディアとして生まれ出るものである。
4、遊びは、想像的で、文字通りにするのではなく、「本当の」ないし「真面目な」生活とはいくらか意識的に解放されたところで行われるものである。
5、遊びは、能動的で、注意を怠らず、しかもストレスのない状態で行われるものである
「遊びごっこ」ではない、5つの特徴を大切にした本当の遊び、学校で可能なんでしょうか?
可能だと、ぼくは思います。
幼稚園や保育園で可能なのに、なぜ学校だけ無理なのでしょうか。
そもそも、学びって遊びより上、なんでしょうか?「遊び」と「学び」ってどう関係しているんでしょう?
先ほどの5の特徴の「遊び」を「学び」に置き換えてみるとこんな感じ。
1、学びは、自己選択的で、自主的である
2、学びは、結果よりもその過程が大事にされる活動である。
3、学びの形や規則は、物理的に制約を受けるのではなく、参加者のアイディアとして生まれ出るものである。
4、学びは、想像的で、文字通りにするのではなく、「本当の」ないし「真面目な」生活とはいくらか意識的に解放されたところで行われるものである。
5、学びは、能動的で、注意を怠らず、しかもストレスのない状態で行われるものである
どんな風に読めるでしょうか?
学びもこうありたいな。
このような群れ遊びを伝承していくのって、大人の責任だなあと思います。そう思うと危険な遊びたくさんやってきたなあ….
新学期こそ群れ遊び。
うっかり身体的な距離も縮まります。
ちなみに、最初にあげたSケンのルールは拙著に載っています。(安全面で心配なことがあったら参照してください。子どもと作ってきたルールが載っています)
熱くなっている子どもの写真もいい感じです。
大人も夢中になりますよ!(腰痛に注意。)
本当は教員養成課程で、「遊ぶ原体験を積み直す」ことって大事かもな。
さあ、校庭にSを書いて、最初は一緒に楽しんじゃいましょう。
編集部より:このブログは一般社団法人「軽井沢風越学園」設立準備財団副理事長、岩瀬直樹氏(前東京学芸大学准教授)のブログ「いわせんの仕事部屋」2018年4月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は岩瀬氏のブログをご覧ください。