正解のない問題を考え、新たな問題を設定してみよう!

日本人(もしくは日本の学生)は正解と不正解のテストばかりやらされているので、「自分で考える力」が乏しいと指摘されることが多い。上から目線で指摘する人たちには本当に「自分で考える力」があるのだろうかと、疑問に感じることもあるが…。

そこで試しに、正解のない問題に取り組んでみることにしよう。

マイケル・サンデル教授のハーバード大学白熱教室で、最初に出てきた問題だ。
トロッコが猛スピードで走ってる。そのまま進むと5人をひき殺してしまう。もうひとつの線路に切り替えれば2人をひき殺してしまう。トロッコを止めるすべはなく、どちらかの線路にいる人たちは確実に轢死してしまう。

ここで、線路を切り替えるスイッチを押すか否か?
多くの人は、線路を切り替えるスイッチを押さないと答えるだろうし、ハーバードの学生たちもそうだった。

では、5人と2人を逆にしたらどうか?
スイッチを押せば2人は犠牲になるが、5人は助かる。

最初の問いの場合と結果は同じだが、2人を犠牲にして5人を助けるためにスイッチを押すのをためらう人が増える。
なぜ、スイッチを押すことをためらうのだろうか?

最初の問いに戻って、スイッチを押さなければ2人が犠牲になって5人が助かるとしよう。
ところが、2人共もしくは2人のうち1人があなたの子供、あるいは年老いた親だとしよう。

もう一方の5人は見知らぬ人たちだ。
親子で憎しみ合っていない限り(笑)、多くの人はスイッチを押すだろう。

その理由は、愛する子供や親の方が多数の知らない人たちより大切だというものだ。

では、スイッチを押した人を裁く立場にあなたがいたとしたらどう思うだろう?
助かった2人も犠牲になった5人も、あなたにとってはアカの他人だ。

同じように尊い人命だ。

2人が友人で5人が見知らぬ人の場合はどうか?

2人が同郷の知人で、5人が知らない場所の出身者だったらどうか?

2人が日本人で、5人が外国人だったらどうか?

前問と同じように、行為者を裁く立場になったらどうか?
この問題に正解はない。私が示す(あくまで私なりの)ヒントは2つだ。

能動的に行動を起こすこと(つまり「作為」)と何もせずに放置しておくこと(つまり「不作為」)は、どのような場合に同価値になり、どのような場合に逆転するのだろうか?私たちは、自分の幼子(おさなご)や年老いた親の面倒を見る義務がある(これを「保護責任」という)。

医師や看護師は、病院に入院している患者に対して保護責任がある。
では、私たちはどの範囲の人たちに対して、どの程度の保護責任を負うべきなのか?

屁理屈でも構わないので、理由を付けて回答を出してもらいたい。
理由を考えることこそが最も重要なポイントだ。頭の中だけでもいいので、しっかり理由を考えてみよう。

また、上記の例とは異なったバリエーションを設定して、自分なりの理由と回答を考えてみよう。
リバタリアニズムだとかコミュニタリアニズムなどという既知の概念を捨てて、白紙の状態で臨んでいただきたい。

荘司 雅彦
講談社
2006-08-08

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年4月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。