日本では、「体育の日」「国民体育大会」など、本来、「スポーツ」と表現すべきところを安易に「体育」と置き換えてしまった歴史がある。おそらく、両者を同じような意味だと捉えてしまったのだのだろう。
だが、そもそも軍隊における兵士錬成に原型を持つ「体育」と、余暇や娯楽といった言葉を語源に持つ「スポーツ」とはまったくの別物であるはずだ。前者は強制されることが多いのに対して、後者は自発的に楽しむもの。似た者同士というより、むしろ対照的でさえある。
自発的に楽しむ「スポーツ」ではあくまで選手が主役となり、指導者はそれをサポートする役回りとなる。その一方、「体育」において主導権を握るのはあくまで指導者であり、選手はその指示に従うことが原則とされる。それは隷属と言い換えてもいい。
日本の学生スポーツや部活動の多くは「スポーツ」を名乗っているが、そこで行われていることは真にスポーツと言えるのかどうか検証が必要であるように思う。その実は「体育」の域を出ていないという組織やチームも少なくないのではないだろうか。
日大アメフト部の反則タックルはあまりに悪質で例を見ないものだが、最近ではレスリング伊調馨選手に対するパワハラなども報道された。それらの問題に共通する「指導者が強権を振りかざして選手を支配する」という構図自体は、残念ながら氷山の一角と言わざるを得ず、そこまで特殊なケースでもないように思う。
「体育」と決別し、「スポーツ」へと移行する——。
そのためには、日頃から練習メニューや試合当日のオーダーなど、選手たちがみずからの創意工夫によって自己決定していくような仕組みに転換していくなど、様々な試行錯誤があっていい。今回のような悲劇を再び招かないためにも、まずはこうした“体育文化”を変えていくこと必要ではないだろうか。