苦境に陥ったら、運命に身を委ねるのも悪くない

セルバンテスの「ドン・キホーテ」に、次のような台詞がある。

運命というものは、人をいかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差しのべてくれるものである。

私は、職業柄、様々な災難に見舞われてきた人たちを数多く見てきた。

不運な事故が原因で資金繰りに窮して自己破産。
妻子からも見放された経営者の男性。

事実婚の夫のDVに苦しめられ、四六時中監視されて逃げられなかった妻。
ようやく逃げられたものの彼以外に依存できず、DV夫の元に戻ってしまい再びDVの渦中に陥った女性。

生まれたばかりの子供の顔を見ることすらできずに、一方的に離婚を突きつけられた男性。

かくいう私自身も、人並みの災難には見舞われたと自覚している。
しかし、数年後に会うことのできた彼ら、彼女らのほとんどは、自分に課せられた運命をしっかり受け止め、果敢に立ち直っていた。
会うことのできなかった人の中には、まだ立ち直れない人もいたのかもしれないが…。

当初は、自身の不幸を呪い、また、原因となった事柄を後悔し、考えがすべて後ろ向きになっていた。
サンクコストとして割り切るには、不幸が大きすぎた。
しかし、決して過去を変えることができないと分かると、過去は過去として葬り去り、新たな人生を切り開いたとのことだった。

「本当に、あの時は、川に身投げしたかったですよー」
と笑顔で冗談めかして語ってくれた人もいるが、おそらく当時は本気で自殺を考えていたのだろう。

先のセルバンテスの言葉にあるように、運命は「必ず一方の戸口をあけておいて」くれるものだ。

交通事故で車椅子生活になった人は、自分の足で散歩をする楽しみを永遠に奪われてしまった。
しかし、それ以外の楽しみや生きがいをしっかり見つけているとのことだ。

他人の幸福ばかり見ているとキリがない。
人生の楽しみをすべて味わえる人など、この世の中には存在しないと私は信じている。
苦しくなったら、運命が「救いの手が差しのべてくれる」まで、流れに身を任せよう。
下手にあがいても、溺れるだけだ。

荘司 雅彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2017-06-22

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年6月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。