交通後進国だった徳川日本には馬車もなかった

八幡 和郎

江戸東京博物館リリースより:編集部

日本には馬車の時代がなかったというと驚く人が多いようだが、時代劇に馬車が出てくるのを見た人はいないだろうし、街道を馬に乗って移動する風景もなかった。幕府が馬車が通行することを許可したのは、大政奉還の前年だった。

乗馬も軍事用や緊急連絡はともかく、日常的な交通輸送手段としては、ほとんど使われなかったといっても過言ではない。

五街道が整備されたとか、北前船で広域の水運が発達したとか寝ぼけたことを言っている人がいるが、とんでもないことは、『江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち 』(PHP文庫)でもさんざん書いたのでお読みいただきたい。

歴史をさかのぼれば、織田信長は誰よりも道路や水運の重要性を理解し、岐阜と京都の間に新規のバイパスを建設し、琵琶湖に大船を浮かべ、関所は廃止した。しかし、江戸時代になって退歩してしまった。東海道でも、桑名と宮(熱田)間、天竜川、富士川は舟での渡し、大井川は渡人足による人力だった。

ヨーロッパでは、国土をひたすら真っ直ぐに走る馬車道の建設を進めたが、日本では二世紀半のあいだ、バイパス建設によるルート短縮化さえなかった。

水運についても江戸幕府は1609年に諸大名が500石以上の船を持つことを禁止した。西国大名が海から江戸を攻めることを警戒したのだ。商業用の船は千石船くらいまで認めたが、竜骨構造や甲板は禁止で帆柱は1本で帆も1枚に制限されていたので、沿岸をおそるおそる進んだだけだった。

北前船は年に一往復が限度、菱垣廻船なんぞ、ダンプカーの過重搭載みたいなものだ。

とても不便、天候が悪いと遠州灘などでも航行不能だった。

郵便システムは存在しなかったし、民間業者による飛脚があったが、一通、数千円の感覚で、「高い、届かない、遅れる、なくなる」という不評は避けられず、旅の途中で故郷の人に出会うと、手紙を届けてもらうように依頼していたほどだ。

こういう交通インフラでは、文化の伝播は遅い、経済は発展しない、長い海岸線の海防など不可能ということになった。

八幡 和郎
PHP研究所
2018-06-05