陛下の高祖父(孝明天皇と島津久光)と西郷どん

八幡 和郎

今上天皇と島津久光(Wikipedia:編集部)

『西郷どん』はいよいよ文久2年の薩摩藩上洛のところまでやってきた。私はこの文久2年の島津久光の上洛とそれに続く江戸下向によって引き起こされた政変をフランス革命におけるバスティーユ襲撃に匹敵する事件と位置づけているのだが、戦後の歴史家はもちろん、明治政府もあまりこの事件に重要性を与えなかったのは、その後の展開と人間関係がねじれているから嫌だというところがあるのでないかと思う。

歴史ファンも意外にご存じないと思うので、少し、島津久光とこの事件についての経緯を紹介しておこう。

島津久光は斉彬より8歳年少である。母親は江戸の町人の娘であるお由羅だが、鹿児島で生まれそこで育った。はじめ家老クラスの種子島家(鉄砲伝来の時の領主の子孫)の養子とされたが、やがて、薩摩藩の御三家的存在である重富島津家の婿養子となった。少年時代から聡明といわれ、(斉彬と違って)、伝統的な国学・漢学に傾倒した。

お由羅騒動にもかかわらず斉彬との関係は良好で、重臣として相談も受け重要な仕事を任されている。斉彬の死の少し前、勝海舟が咸臨丸で指宿を訪れたが、このとき斉彬は久光を紹介し、「若い頃から学問を好み、その見聞と記憶力の強さ、志操方正厳格なところも自分に勝っている」といったという。

お由羅騒動については、後年になって久光は、当時は騒動そのものがあったことを知らなかったといったらしい。俄に信じがたいことだが、関係者もできるだけ久光に傷がつかないように、本人には知らせないようにしていたのは、あり得ないわけでもない。

斉彬は遺言で、久光かその子の忠義を藩主とし、自分の子である哲丸を忠義の娘婿とすることを指示した。久光は斉興とも相談して忠義を後継とした。しかし、難しい時期にあって、藩主として制約が多い立場にあるより、藩主の父としての方が自由に動けるという配慮もあったのだろう。

しばらくは、実権は斉興が後見役をつとめたが、その斉興も翌年の九月には死去。それに先立ち三月には桜田門外の変で井伊大老が暗殺されており、中央の権力が空白状態になったところで、いよいよ島津久光の出番がやってくる。

息子である忠義が藩主になったあとも、しばらくは後見となった斉興を押しのけることができなかったが、斉興死後は、有能な政治家として動き、「国父」として実権を握った。

政治的バランスのなかで、側近の小松帯刀をパイプ役として、大久保利通ら斉彬派中核だった精忠組の一部を取り込むことに成功し、「じごろ(田舎者)」と言ってはばからなかった西郷とは微妙な関係が続いたものの、彼なりに藩内の掌握に成功した。

そして、文久2年(1862年)になって、久光は斉彬の意志を継いで公武合体を進めると称して上京する。このとき、西郷隆盛は中央政界に経験も知己もない久光がそんなことをするのは無理だと(失礼にも面前で言って)反対した。

ところが、西郷の予言は外れて、この久光の行動は大成功するのである。まず、伏見の寺田屋に集まった薩摩藩内勤王過激派を粛正したことで、朝廷内の疑念を払拭することに成功し、朝廷から藩兵の京洛駐屯を認めさせ、一橋慶喜の将軍後見職就任などを求めた勅書を獲得した。

島津久光は勅使大原重徳とともに江戸に下り、慶喜の将軍後見職、松平春獄の政治総裁職就任を実現させた。

ここに、井伊大老によって試みられた、幕府を真の意味での日本政府に生まれ返らせようと言う試みは最終的に挫折する。わずか千名の外様大名の部隊に入られただけで事実上のクーデターが成功するほど幕府は弱っていたのである。

こののち、慶喜らを中心に推進される路線は基本的には、「雄藩連合」を念頭に置いたものになる。小栗忠順に代表される「幕府絶対路線」は幕閣のなかではなお続くし、会津藩などは最後までそれで動くのだが、新しいリーダーである慶喜の考え方は、明らかにそれと一線を画したものであった。

島津久光の一行は江戸からの帰りに横浜で英国民間人とのトラブルから、生麦事件を起こす。それが、薩英戦争に発展するが、英国の強さを見たことで藩内保守派の転向を促し、そこそこ善戦したことから、結果として英国から一目置かれることになる。

斉彬と久光を比べると、知性においては甲乙つけがたいものがある。斉彬のカリスマ性は久光にはない。だが、久光はそれを厳しい統率力とバランス感覚の良さでカバーした。

藩外要人との交流や実際の外交経験はないが、兄である斉彬のしてきたことを冷静に観察し、意見も言ってきたわけであり、知識としては不足していなかったともいえる。

斉彬の側近だった西郷からあれこれいわれても、「兄貴のことは西郷などより俺が一番よく知っている」という気分だっただろう。それだからこそ、中央政界に乗り出すについても、十分に指導者としての自分に自信をもっていたし、太っ腹ではないが、根性は座っていた。

その久光が、結局のところ、少なくとも廃藩置県までは、主役の一人として政局を動かしていくのである。

一方、気の毒だったのは彦根藩である。「大老が白昼に暗殺されたものを病死と偽って届けた」として35万石を25万石に減封されたのである。こうなると、彦根藩はもともと傍流から藩主になって、藩の利益を損じた直弼の路線を否定せざるを得なくなった。長野主膳らは主君を惑わせたとして斬首され、村山たか女は京都でさらし者になった・・・。

高松藩主松平頼聡に嫁していた直弼の娘・弥千代は井伊家に返された。この二人は明治になって再び夫婦になるのだが、離縁されたときに持ち帰った華麗な雛道具はそのまま彦根に残され、現在でも彦根城博物館で見ることができる。

こうなれば、彦根藩は(裏切られたとして)、幕府の仕打ちを恨んだ。そして、この感情が、王政復古以降の政局に決定的な意味を持って、幕府とその残党を追い詰める行動を彦根藩にとらせることになるのである。

また、ドラマの進行にしたがって、余り語られることのない久光の視点から、幕末史を何度か書きたいと思う。

なお、『江戸時代の不都合すぎる真実 ~ 日本を三流にした徳川の過ち』(PHP文庫)では、幕末史は薩摩の視点から俯瞰して紹介した。また、この島津久光は、今上陛下の高祖父であることは『誤解だらけの皇位継承の真実』 (イースト新書) でも紹介してある。

島津久光→島津忠義→久邇宮妃殿下→香淳皇后→今上陛下ということになるが、陛下の気質には、かなり色濃くこの島津久光と、孝明天皇のDNAを私は感じる。ちょうど今回の『西郷どん』では、陛下の2人の高祖父同士の出会いが登場していたのは感慨深かった。

八幡 和郎
PHP研究所
2018-06-05

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八幡和郎
イースト・プレス
2018-04-08