ビッグバン・ベイダーが亡くなった。享年63歳。早すぎる死である。2年前に余命2年という報道があり、覚悟はしていたが。
なんといっても、名勝負は新日本プロレスと全日本プロレスが「鎖国」状態だった1990年に奇跡的に行われた交流戦でのスタン・ハンセン戦、1996年1月4日のアントニオ猪木戦だ。ともに東京ドームで行われた試合だ。ハンセン戦はリングが壊れそうな肉弾戦。眼が腫れ、自らマスクを脱いだ。後者は、猪木に対して投げっぱなしジャーマン、ムーンサルトプレスと情け容赦ない展開だった。ちょうどこの試合は会場で見ていたのだが、痛みの伝わるプロレスだった。
その他、高田延彦との神宮球場での1戦もあった。冬の寒い日だった。ただ、申し訳ないが、試合の展開などはまるで覚えていない。
それはそうと、事件といえば、たけしプロレス軍団の件だろう。そう、ベイダーが一躍有名になったのは、たけしプロレス軍団からの刺客として新日本プロレスのリングに上がったときのことだ。対戦アピールによって、その日の目玉だった、猪木長州戦が中止になるかもという展開。結局、決行されたが、その日に日本で本格デビューしチャンピオンになった馳浩が乱入という展開。その後、猪木とベイダーが戦ったが、今度はベイダーが瞬殺で勝利。あまりの茶番に場内は騒然となり、両国では大暴動がおきた。あまりの暴動に、リングアナの田中氏は泣きながら土下座していたような。そんな写真を見かけたことがある。
学生時代にビデオで見たが、あまりの茶番だったという感想は変わらないのだけれども、あまりの強さであったこともまた事実だ。巨体でありつつも、スピーディーかつパワフルに動くのがベイダーの魅力である。
そして、強さの中にもユーモアのある、愛されるレスラーだった。「頑張って」と叫びながら殴るシーンが思い出される。
また一人、レジェンドが逝ってしまった。合掌。
北野武、何か言わないかな。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2018年6月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。