2日前の当コラム欄で「閉塞感が支配する現代、ロマンを語る政治家はいなくなった」と嘆いたが、ロマンを「夢」に置き換えると、夢を語る指導者はいることに後で気が付いた。一人は新しいシルクロード構想「一帯一路」を提唱した中国の習近平国家主席、もう一人はロシアのプーチン大統領だ。プーチン氏は旧ソ連時代の「大国の復活」を夢見ている。習近平氏もプーチン氏も機会ある度に自身の夢を語り、それを追及している指導者だ。偶然、両者とも欧米型民主国家の指導者ではなく、共産主義・独裁主義的な国の政治家だ。
米国人公民権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある」(I Have a Dream)という有名なメッセージを思い出すまでもなく、人は本来、それぞれ夢を持っている。その夢を実現するために努力する。「スポーツの世界」でも「学問の世界」でも同じだろう。夢をもたず、気が付いたら“夢のような”ことが実現した、という人は少ない。夢を持ち、それを眼前に常に描きながら生き、その夢を実現した、という証の方が普通だろう。
夢を持っている人の生き方にはロマンの香りがするものだ。その夢が実現できるか否かは分からないが、それを追及しながら生きる。ひょっとしたら、夢が実現できるか分からないゆえにロマンが生まれてくるのかもしれない。成功の裏付けのない生き方だ。
世界の政治指導者を見るなら、ロマンを感じる指導者は少なくなった。トランプ米大統領を含む欧米指導者は自身の夢やロマンを語らなくなって久しい。次期選挙に追われ、ロマンを語る時間とその余裕がない。任期は4年から6年と限定されている。選挙で落選すれば、その翌日から「タダの人」となるから、それが恐ろしいために政治家は必死に選挙に勝つために知恵と資金を投資する。習近平氏やプーチン氏のようにロマンを語ったり、見果てぬ夢を追うなど贅沢なことはできない。トランプ米大統領の最大の夢は“米国ファースト”ではなく、再選を果たすことだ。
民主主義は歴史を通じて人類が獲得してきた現時点では最良の政治システムだろう。その民主主義の要は自由選挙だ。一定の年齢に達した国民は自分の自由意思で指導者、政党を選ぶことができる。本来は理想的なシステムだが、現実の民主選挙は個々のエゴとエゴのぶつかり合いであり、組織、政党の闘争に終始し、夢を追う前に票を獲得するために実現不可能な公約を表明しなければならない。
問題は、国民の自由意思の行使の結果、大多数の国民が幸せになるならば、民主主義の選挙制は理想的なシステムといえるが、現実はそうではないという点だ。民主主義の功績は大きいが、再考すべき時を迎えている。少なくとも、政治家が自由に自身の夢を語ることができる政治体制が必要だ。
そこで習近平主席とプーチン大統領の話に戻る。彼らは現代の多くの政治家が失った夢を持った指導者だ。その夢の内容がいいか悪いかは別にして、彼らは少なくとも夢を語る。
国家主席に就任した習近平氏は2013年3月17日、全人代閉幕式の演説で「中国の夢」について、「中国型の社会主義路線を堅持し、5000年余りの民族の夢を実現する」と述べている。習近平氏は就任前から夢を持っていたことが分かる(「当方の『中国の夢』」2013年3月19日参考)。その「中国の夢」が新シルクロード構想へと発展していったのだろう。
一方、プーチン氏は自分が生まれた時の旧ソ連時代を忘れることができない。世界を米国と2分し、支配してきたあの時代よ、もう一度、といった感じだ。ただし、ロシアの国民経済は大国どころではなく、発展途上国レベルを脱した程度に過ぎず、原油と天然ガス依存体質は消えていない。歯がゆいだろう。だから、ウクライナのクリミア半島併合という軍事的冒険に出てしまったわけだ。プーチン氏は近い将来、習主席と同様、ロシアの夢を果たすために終身制の導入を図ってくるだろう。
習近平主席とプーチン大統領は夢をもち、国民に語る。それが「偽りのロマン」と分かっていても、他の選択肢がない現在、多くの国民はその「偽りのロマン」に運命をかけようとする。一方、トランプ氏は“米国ファースト”を唱えるが、それはワイルド資本主義社会の最後の叫びであり、そこには夢もロマンもない。世界は今日、「偽りのロマン」と「ロマンのない世界」に分かれているわけだ。
マザー・テレサは、「世界を良くしたければ、先ず、あなたと私が変わらなければならない」と語った。政治体制が問題ではなく、そこに生きている一人一人が変わらなければ世界は良くならないというのだ。その意味からいえば、民主主義にもまだチャンスはあるわけだ。
民主主義国は神を失い、共産世界や独裁国は神を追放してきた。その結果、「ロマンのない世界」と「偽りのロマン」が生まれてきた。それではどうすればいいのか。その答えは案外シンプルだ。失った「神の思想」を回復すればいいのだ。神を呼び戻した社会主義体制は神を回復させた民主主義体制とほぼ同一だろう。
蛇足だが、右翼思想も左翼思想も両者を止揚できる「中心」が見つかれば、両者の対立は自然に消滅できるのではないか。左右の闘争、カインとアベルの葛藤もその「中心」を失った結果生じてきたものだからだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年6月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。