いつだったんだろう、欧州連合(EU)が“人、物、サービス、資本の自由な移動”を宣言し、そこに住む国民は煩わしい国境コントロールを体験せずに、他のEU内を自由に移動できたことを喜んだ日は。ベートーヴェンの交響曲第9番の最終楽章「歓喜の歌」の合唱が響き渡った日々が遠い昔のように感じる。
EU加盟国が域内国境を次々と閉鎖する動きが出てきた。もはや誰も欧州の歌「歓喜の歌」を合唱しようと考えず、できれば誰にも気が付かれないように域内国境を閉鎖しだしたのだ。
EUの盟主ドイツで2日、メルケル首相が率いる第一与党「キリスト教民主同盟」(CDU)と連立パートナー、バイエルン州の地域政党「キリスト教社会同盟」(CSU)のゼーホーファー党首(内相)との間で難民受け入れ政策でようやく合意に達したという。ゼーホーファー内相によると、合意内容は、①欧州内で一度難民登録をした難民は登録先に送り戻すこと、②バイエルン州とオーストリアの国境間に収容施設を設置、③ドイツは欧州内の加盟国と難民受け入れに関する2カ国間の行政協定を締結すること、などが明記されているという。
ドイツでは今年に入り、約1万8300人の難民がドイツ入りする前に他の欧州で登録済みだったという。今後、そのよう難民は主要施設に送り、最初に登録した欧州の国に送還される。もちろん、ドイツはその前に欧州の加盟国との間で難民受け入れの行政協定を締結しなければならない。メルケル首相によると、ギリシャ、スペイン、フランスとは既に合意協定を締結済みという。また、ハンガリーとチェコとも同様の内容の合意があるという。ただし、メルケル首相が難民受け入れで合意したと名指しされた国はその直後、「ドイツとそのような協定を結んでいない」と表明する国が出てきており、真相は依然、明らかではない。
CDUのメルケル首相とCSUのゼーホーファー内相間で難民政策での合意が実現されたことで、CDUとCSUの政党間の分裂は回避され、第4次メルケル連立政権は解体の危機を一応脱したと受け取られているが、合意内容が具体的に実現できるかは不明だ。
ドイツ政府の難民政策の修正を受け、その影響を直接受ける隣国オーストリアでは3日、クルツ首相、シュトラーヒェ副首相(極右政党「自由党=FPO」党首)、キックル内相(FPO出身)は緊急会合し、「ドイツ政府の難民政策がわが国にマイナスをもたらすような事態が生じるなら、南部国境を閉鎖することも辞さない」(クルツ首相)という。
難民が既に他の加盟国で難民登録をしていたが、その加盟国が難民の受け入れを拒否した場合のシナリオを考えなければならない。それらの難民は一旦オーストリアに送られるのかといった問題が明らかではない。いずれにしても対スロベニア、対イタリア国境を更に厳しく管理することになる。最悪の場合、対バイエルン州との国境も同様だ。
一方、リビアから殺到する難民ボートを受け入れてきイタリアで6月1日、大衆迎合運動「5つ星運動」と極右政党「同盟」(リガ)のジュセッペ・コンテ連立政権が発足したが、新政権は「わが国は今後、一人として難民を受け入れない」と主張している。新政権は「ドイツの難民政策が実際に履行される場合、対オーストリアのブレナー国境線を閉じる」と警告を既に発している(マッテオ・サルヴィー二伊副首相)。サルヴィー二副首相は3日、オーストリアのキックル内相に電話で、「わが国はオーストリアから返還された難民を受け入れない」と通告している、といった具合だ。
イタリアの対応を受け、スロベニアも何らかの対策を強いられるだろう。このように、加盟国の域内国境の監視・閉鎖がもたらした力学は欧州の域外国境線まで拡大されていく。2016年のバルカン・ルートが閉鎖された時のようにだ。オーストリア日刊紙プレッセ(4日)は「欧州域内国境でドミノ効果」と表現しているほどだ。
メルケル首相は難民返還問題では、「一国の単独決定ではなく、欧州全体の共同対策を取るべきだ」と常に主張してきたが、ゼーホーファー内相との間で合意した内容は実際はその発言内容に反し、ゼーホーファー氏の主張を受け入れたものだ。
「難民ウエルカム政策」、「難民受け入れ最上限設定拒否」、そして「難民強制送還拒否」といったメルケル首相の一連の難民政策が欧州の今日の分裂をもたらしたことは間違いない。当のメルケル首相は自身のリベラルな難民政策を堅持、妥協を拒否することで、難民への寛容、連帯といった“欧州の共通の価値観”を守っていると考えていたのだろう。
政治の世界で信念ある政治家が少なくなった今日、メルケル首相のような指導者は大切だが、同首相にとって不幸だったことは、北アフリカ・中東から殺到した難民・移民の数が想定外の規模だったことだ。欧州国民が有している寛容、連帯感を上回る難民の津波に遭遇し、欧州の共通の価値観は吹っ飛んでしまったのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年7月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。