なぜ人は「怪しい治療」を信じるのか?「医療」と「迷信」のお話

21世紀に入って20年近くになり、ITも発達してきましたが、「医療」の周辺に転がっている「怪しい迷信」はなくならないどころか、細分化され、複雑化しているように見えます。

例えば、身近なところでは、冷え性や妊娠、母乳にまつわる不合理な神話は、ネット検索をして大量に探すことができます。また、命に関わるところでは、「癌」という、かなり治療法は発達してきたけれども、未だに「不治の病」となるケースが多々ある疾患にまつわる「怪しい治療法」は、水素水やふくらはぎのマッサージ、根拠のない免疫療法(ちなみに「免疫療法」という治療が悪いわけではなく、非常に今後が期待される治療法ですが、免疫療法を語った怪しげな治療が蔓延しているために、この名前自体が怪しげな治療と誤解されかねないことに、わたしは危惧を覚えています)、キノコの類いに至るまで、「スピリチュアル」あるいは「偽科学」に依拠した「治療」は、年々増殖を続けているように見えます。

普段、医療リテラシーに関する啓蒙活動をしている医師やジャーナリストから、「真面目に医療のことを伝えても伝わらない」という嘆きをよく耳にします。それはわたしも感じているところで、どのようにわかりやすく伝えるか、は、日々、伝える者の1人として、四苦八苦しています。

一方で、「科学的であること」に重きをおくあまり、「非科学的な行動をする人々」を理解しようとしない思考には危惧を覚えますし、科学的であることと、非科学的であることを、「こちら側」と「あちら側」のように考えてしまう傾向も考えものだと思います。

われわれは普段、意識せずして非科学的な、非論理的な行動をとっています。例えば、科学的にはほぼ問題がないといっても、殺人などの事件があった住居に入居しようとする人はほとんどいないと思いますし、また、医師や科学者であったとしても、ふと判断に迷ったり不安になったときに、占いなどに立ち寄ってみることはあるかもしれません。また、経営者が占い師の意見を参考にすることはままあることだと思います。スポーツ選手で、迷信のようなルーチンを大切にする人も多くいます。このような行動に対しては、われわれはあまり問題にすることはないのではないでしょうか。

また、人は、あえて不合理なものを求める性質があるかもしれないと仮定することもできると思います。そうでなければ、創作物である小説やドラマや娯楽がここまで世の中に普及し、宗教が広まることもないでしょう。こういった不合理を求めたりする行動は、おそらくは、「死への恐怖」と密接につながっているように思います。

「死の過程」の五段階モデル、いわゆる「キューブラー・ロスモデル」(人が自分の死を受容するには、第一段階:否認と隔離、第二段階:怒り、第三段階:取引、第四段階:抑うつ、第五段階:受容のという過程を経るという説)を提唱し、ターミナルケアの基礎を築いた精神科医エリザベス・キューブラー・ロスも、死の学説を提唱した後で、臨死体験や死後の生についての興味を募らせ、怪しげな霊能者と関わりをもったことが知られています。

このように考えていけば、怪しげな治療に興味を持つ、というのは、「特別なこと」ではなく、人間の特性に根ざしたことのようにも見えます。たまたま機会に恵まれて医学的な訓練を受けたわたしたちは、生死に関わるような「怪しげなもの」を信じないような訓練を受けていますが、信じてしまっている人々は、決して愚かなわけでも異常なわけでもありません。

人は理論や理性だけで生きることは不可能なのかもしれません。怪しげなものを信じてしまっている人に必要なのは、合理的な説明や正しい理論ではないのだろうと思います。こういった人々に、信念や行動の変容を促すためには、説得や説明ではなく、よくいわれるように、共感などの、人間の持つ理論的でない部分、感情の部分や、不合理な部分へのはたらきかけが必要なのかもしれません。そういった部分の研究や実践が、今後もっと発達していくことが望まれます。