呼吸ということ

安岡正篤先生は御著書『論語に学ぶ』の中で、『そもそも息というものは、呼吸と言う如く、吐くことが大事なのです。ところが大抵は、「吸呼」はするが、「呼吸」はやっておらん。大体、肺容量の六分の一くらいしか息をしておらぬそうです』と書いておられます。

更に続けられて、「ということは残りの六分の五は汚れた空気がそのまま沈澱しておるわけである。だから人間は時々、思い切って肺の中に沈澱しておる古い息を全部吐き出して、新しい空気と入れ換えねばならん」と述べておられます。

人は概して、吸を重要視するよう思われますが、本来、呼(…吐くこと)を大事にしなければなりません。吐いてから吸えば自然に吸う方が沢山になるわけで、肺に溜まっている汚れた空気を全て吐き出し、新鮮な空気を深く吸い込むのです。之は、禅やヨガ等々の呼吸法の基本です。

血液というものは、酸素が無ければ体における役目を果たせません。呼吸とは、生きて行く上である意味最も大事な要素であります。にも拘らず、殆どの人が誤って吸呼(…吸ってから吐くこと)しており、正しく呼吸(…吐いてから吸うこと)出来ていないのです。

上記に限らず、何事にもきちっと順序があるものです。私が気付く卑近な例の一つに、多くの人が粉薬を口に入れてから水を飲む、ということが挙げられます。先に水を口に含み、そこに粉薬を浮かせ、舌に付かぬようゴクッと飲めば、苦いとか不味いとかといった話にはならない、にも拘らずです。

このようにあらゆる事柄が合理的に為されねばならないわけで、吐いてから吸うことも正に合理的なのです。呼吸に関して更に言うと、例えば『荘子』に「真人の息は踵(きびす)を以てし、衆人の息は喉を以てす」とあります。

之は「きびす、すなわちかがとで息をするということは深く息をすることです。ところが衆人の息は浅くて咽喉でやっている。呼吸は喉(こう)息ではだめで、踵(しょう)息でなければいけません」といった意味になります。

此の「踵息は現代の気功法の中に復活し、(中略)全身の最も末端であるかかとまで気を巡らせることを教えている」ものです。日頃何気なく行っている簡単な動作でも、意識してよく考えてみることが必要だと思います。

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