自民党の杉田水脈衆院議員が月刊「新潮45」に寄稿し、「『LGBT』支援の度が過ぎる」の中で「性的少数派(LGBT)は非生産的だ」、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるか」と指摘したことが報じられると、性的少数派ばかりか、マスコミや政治家も巻き込み、寄稿者への批判の声が飛び出しているという。
当方の感想は、「杉田議員の言いたい内容は多分正しいが、問題があるとすれば、『非生産性』という不適切な言葉を使用したことだ」という点に集約できる。人間の出産は工場の生産活動ではない。子供の出産を生産性問題と誤解されるような表現を恣意的に使用したことだ。ひょっとしたら、雑誌関係者がインパクトのあるタイトルが必要と考えた末、「非生産性」という表現が飛び出してきたのかもしれないないが、性的少数派を不快にさせたのは当然だろう。
同性カップルは子供を産むことができない。極めてシンプルな問題だが、杉田議員を批判する人々は「非生産性」という表現から性的少数派への蔑視を感じ取り、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか」という政治家・杉田議員の主張に至っては、議員の傲慢さを感じ、もはや冷静に議論できなくなったのだろう。杉田議員のケースは、政治家は如何なる場合でも発言内容ばかりか、表現にも慎重であるべきだ、という基本的な教訓を思い出させる。
杉田議員の意見は大きくは間違っていないと思うが、性的多数派からは杉田議員擁護の声は余り聞かれない。むしろ、性的少数派と同様、杉田議員の「非生産性」という表現を激しく批判する声が聞かれる。「非生産性という表現が問題だが、その主張は正しい」といった意見が飛び出しても可笑しくないはずだ。
性的多数派は性的少数派問題になると何故か躊躇し出す。寛容な人間であることを証明したい、という抑えることができない衝動を感じるからだろうか。
当方は性的少数派の同性婚には反対する。当方は性的少数派の人々からは「演じているようなうさん臭さ」を感じてきたが、最初から性的少数派として生まれてきた人が実際に存在すること、彼らは社会の厳しい差別にあっていることを知った。
その意味で、性的少数派への社会的差別は撤廃されなければならない。幸い、性的少数派への差別は少なくなってきている。アイルランド出身の著名な劇作家オスカー・ワイルド(1854~1900)や英国の数学者で人工知能の父と言われるアラン・チューリング(1912~54年)が同性愛者として体験したような迫害や虐待はもはや考えられない(例外はロシア)。
同時に、性的少数派は社会の多数派と同様の権利を得ることはできないと考える。それこそ「差別だ」と指摘されるかもしれないが、それは差別ではなく、社会の秩序だ。子供を有する家族への税率は子供のない夫婦よりさまざまな点で優遇されている。ななぜならば、子供を産み、成長させ、一人前の成人に育成させることを支援するのが国家の役割だからだ。それを不公平と呼ぶべきではない。厳密にいえば、人は生まれた時から不公平な状況に置かれている。
民主主義国では、何事でも多数派がその主導権を握る一方、少数派は多数派の連帯と支持を得て、その自由を行使する。両者は主従関係ではなく、相互共存の原則に基づいている。
重要な点は、性的少数派は多数派の寛容と連帯を誤解し、性的少数派の生き方が主流と感じ出すことだ。多数派は性的少数派問題では口を閉じるが、性的少数派が本流とは考えていない。多くは人権擁護、差別撤廃という観点からの連帯であり、支持だ。
性的少数派が弱者至上主義に陥り、多数派の権利まで介入した場合、多数派はその対応で苦慮するだろう。性的少数派は多数派から出てくシグナルを間違って受け止めれば問題が生じるだけだ。性的多数派は性的少数派に一定の理解を示す必要があるが、少数派も多数派の秩序を尊重しなければならない(「性的少数派(LGBTIQ)の多様化」2018年6月18日参考)。
日本は今、少子化問題に直面している。杉田議員の表現を借りるならば、「日本は世界的に非生産的な民族」となろうとしている。杉田議員の「性的少数派は非生産的」という主張は、婚姻とは何か、家庭とは、人間の価値はどこにあるのか、などを冷静に考えてみる機会となれば、少しは“生産的”となるのではないか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年7月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。