LGBTは「趣味の問題」ではない

長谷川 良

自民党の谷川とむ衆院議員(比例近畿、当選2回)がインターネット番組で、同性婚のための法整備は不要との見解を示した上で、同性愛を念頭に「趣味みたいなもの」と述べたことが1日分かった、というニュースを読んだ。

その数日前、自民党の杉田水脈衆院議員が月刊「新潮45」に寄稿し、「『LGBT』支援の度が過ぎる」の中で「性的少数派(LGBT)は生産的ではない」、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるか」と指摘したことが報じられると、性的少数派ばかりか、マスコミや政治家も巻き込み、寄稿者への批判の声が飛び出したばかりだった。LGBT問題が日本では欧州ほど大きな問題ではないと考えていただけに、少々驚くと共に、日本と欧州ではLGBT問題では捉え方がやはり異なるのではないかと感じた。

▲ミケランジェロの作品「アダムの創造」(ウィキぺディアから)

谷川議員の「趣味みたいなもの」という発言を当方は理解できる。LGBTではない者にとって、性的少数派の声は正直言って性的嗜好のように理解するしかないのかもしれない(国会議員の責任はここでは言及しない)。当方も前回のコラムで性的少数派から「演じているようなうさん臭さ」を感じてきたと書いた。多分、谷川議員の「趣味みたいなもの」と同じような内容だったのかもしれない(「非生産的なコラム」かもしれないが」2018年7月30日参考)。

しかし、生まれた時からLGBTの人が実際にいることを知った。彼らは演じていないし、趣味としてその生き方を選んだのではない。谷川議員はスイス・インフォが配信した「LGBTIQ」の記事を読まれることを勧める。考えられないほどの試練と偏見の中で生きていかなければならない性的少数派は存在するし、これまでも存在してきた(「性的少数派(LGBTIQ)の多様化」2018年6月18日参考)。

その意味で、繰り返しとなるが、性的少数派への差別は撤廃されなければならないし、可能な限り、国家も支援を惜しんではならないだろう。ただし、性的多数派と性的少数派が完全に法的に平等、公平となることはあり得ない。性的多数派によって機能する社会では、性的少数派は正式の婚姻とはみなされないからだ。

人は生まれた時から平等ではない。この不都合な事実をわれわれは受け入れて生きる以外に他の選択肢がないのだ。生まれた時から、全て与えられている人から、生まれた時に既に肉体的、精神的にハンディを背負っている人もいる。余り努力しなくても全て理解できる人とそうではない人、豊かな家庭で育った人とそうではない人もいる。要するに、人は生まれた時からさまざまな不平等な状況下で誕生し、成長していくわけだ。

だから、平等や公平を求めることは無駄だと言いたいのではない。可能な限り、平等を求め、公平な扱いを求めることは当然だが、同時に、越えることができない不平等な環境もあることを忘れてはならないだろう。

性的少数派も自身の幸福を求める権利がある。同性婚論争は性的少数派を支援する人々にとって重要かもしれないが、性的少数派の人々にとって果たして不可欠な目標だろうか。

蛇足だが、人は平等ではなく、公平でないからといって、絶望したり、失望する必要はないと思う。各自が与えられた環境下で最大の努力を発揮し、人生の幸福を求めていけばいいのではないか。性的少数派にとっても同じだろう。不平等を宿命として生きていかなければならない人間だからこそ、“連帯”も生まれてくるのではないか。

谷川議員の「趣味のようなもの」という発言は、杉田議員の「LGBTは生産的ではない」と同様、やはり不適切な表現だったと言わざるを得ない。両国会議員には欧州のLGBTの現状を視察され、現実を見てこられたらいいだろう。家庭が崩壊し、神を失ってしまった欧州社会に生きる“寂しい欧州の人々”に出会うかもしれない。LGBT問題は人間の本源を問う深刻な問題を含んでいると考える。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年8月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。