前日のコラムの続きだ。ルシファーに誘惑されて「善悪を知る木」の実を取って食べたアダムとエバは自分たちが裸であることを知ってイチジクの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。神が現れ、「あなた方は何をしたのか。あなた方が裸であるのをだれが知らせたのか」と問う場面がある(「創世記」第3章11節)。「失楽園」の終幕場面だ。
「善悪を知る木」の実を取って食べたアダムとエバは下部を隠した。人は恥ずかしいところを隠す習性があるから、下部で罪を犯したことが分かる。口でも、手でもない。下部をイチジクの葉で覆ったというのだ。そして下部が罪となったということは、性的関係を持ったということを強く示唆しているわけだ。
今回は、現代人は“イチジクの葉”でどこを隠しているだろうかを考えてみた。
隠す以上、恥ずかしいところだが、多分、現代人の多くはアダムとエバと同様、下部を隠す人が多いのではないだろうか。もちろん、下部ではなく、口で人を誹謗中傷したり嘘をついたりしてきた人は口を隠すかもしれないし、他人から何かを盗んだ人は手を隠すかもしれない。
日本文化を研究している著名な東大名誉教授(61)が最近、「自分は同性愛者だ」とカミングアウトしたといニュースが流れていた。名誉教授はその直後、「これで心が少しホッとした」と吐露したという。教授はイチジクの葉で「同性愛者である」という事実を久しく心の中に閉まってきたが、それを外し告白したことで心の荷が軽くなったわけだろう。
学者のように自身の性的指向問題だけではない。他人に知ってもらいたくない秘密や過去の不祥事を抱えて生きている人は少なくない、というより、ほぼ全ての人は何らかの秘密を心に秘め、その部分を“イチジクの葉”で覆って生きている。
冬になると風邪予防のためマスクをして通勤する日本人の姿が見られる。マスクをして歩くという習慣が少ない欧州からみたら、その情景は少々異様かもしれないが、衛生的な風邪対策だ。そのマスク姿で通勤する日本の朝の情景を思い浮かべていると、“イチジクの葉”を覆って生きる人間の姿とイメージが重なってくる。
キリスト教会では罪を告白する告解部屋がある。信者たちは神父の前で罪を告白し、重荷を清算する。“イチジクの葉”を外して神の前に告白することで、その重荷から解放する儀式だ。神を信じる人もそうではない人も心に仕舞ってきた内容が時間の経過とともに軽減すれば幸いだが、そうではない場合、辛い。その意味でキリスト教会の懺悔の儀式は生きていくうえで必要不可欠な行事なのだろう。
「失楽園」の話に戻る。神は「善悪を知る木」の実を取って食べたアダムとエバに語るが、最初から非難していない。アダムとエバに説明を求めている。彼らが正直にその罪を告白すればひょっとしたら神は許す考えだったかもしれないが、アダムはエバに、エバは蛇にその責任を転嫁して弁明した。“イチジクの葉”を外すことが如何に難しいかを間接的に物語っている。
同時に、神の計らいを忘れてはならないだろう。新約聖書の神は愛と許しであり、旧約聖書の神は厳しく、厳格なイメージがあるが、「創世記」の「失楽園」後やアベル殺害後のカインに声をかける時、神の言動には叱咤とやはり慈愛と計らいがあるのを見出す。
カインは「私の罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、私を地のおもてから追放されました。私を見付ける人はだれでも私を殺すでしょう」というと、神は「だれでもカインを殺す者は7倍の復讐を受けるでしょう」と述べ、カインを撃ち殺す者がないように、彼に一つの印(カインの印)をつけられたという。
結局は、自分は“イチジクの葉”でどこを隠してきたかを知ることを通じて、失った神との和解の道が開かれるのではないだろうか。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年9月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。