『新潮45』問題を、日本の論壇誌再生のキッカケに

これは、杉田水脈問題だけではなく『新潮45』問題である。例の「LGBTは生産性がない」という内容の文章を、同誌が掲載し、批判の声が起こった件。最新号では、『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』という特集を組んでいる。次のような文章が掲載されている。

◆LGBTと「生産性」の意味/藤岡信勝
◆政治は「生きづらさ」という主観を救えない/小川榮太郎
◆特権ではなく「フェアな社会」を求む/松浦大悟
◆騒動の火付け役「尾辻かな子」の欺瞞/かずと
◆杉田議員を脅威とする「偽リベラル」の反発/八幡和郎
◆寛容さを求める不寛容な人々/KAZUYA
◆「凶悪殺人犯」扱いしたNHKの「人格攻撃」/潮匡人

例によって、読まずに批判することはできないので、購入し読み、絶句した。いちいち批判する気や、事実の訂正をするのが疲れるほどの、杉田水脈の文章以上の、欺瞞性、瞞着性に満ちたものだった。ブログ以下の文字量のもの、論拠が不明確なもの、事実誤認の他、その事実すらを確認しようとする姿勢すらないものまで掲載されていた。ただ、本来は具体的にそれぞれ何がどう問題かを指摘するべきなのだが、それは別稿にて。そもそも論で杉田水脈の書いたものは「論文」でも「論考」でも「エッセイ」ですらもない。だから「文章」と表記する。

ここでは、今後、新潮社や他社がするべきことを論じたい。『新潮45』を批判するツイートを、同社の文芸部アカウントがRTした話が美談化されたり、社長が声明を出すことについて早い対応だとする声があったが、私はこの一連の動きに疑問を持っている。

社内で反対の声があがっていると報じられているが、社内向けの具体的な問題提起なり、外に向けた声明などがないと信頼はできない。うがった見方をするならば、文芸部アカウントも同社のまわし者で、このような世論操作をすることがミッションになっていたとしたならば、どうだろう。社長の声明についても、あれは「永田町話法」のようなもので、何を問題と捉え、どう謝っているのかもわからない代物である。こうした策謀の貫徹など、絶対に許してはならない。

いつの間にか『新潮45』は現状の45歳の感覚すら代弁しない、反左翼、嘲笑路線になっているように私には見える。社長は謝罪することよりも、次号なり、次々号なりの同誌で、批判的な意見も含めた両論併記の検証特集を組むことを発表したならば、より印象が変わったのではないか。杉田水脈議員のインタビューを掲載するのも、いい。

ここで奮起すべきは、他の論壇誌ではないか。徐々にこの問題に関する論考を掲載する動きはある。健全な論争こそ論壇誌が本来果たすべき役割の一つである。このような事実誤認と差別的な視点を掲載した雑誌から論争が起こるのもレベルの低い話ではあるが。ここで、健全な議論の喚起をして頂きたい。

「私を嫌いになっても、AKB48を嫌いにならないでください」は前田敦子の名言だ。『新潮45』を嫌いになっても、新潮社を嫌いになりたくないという読者もいるのではないか。

「想像力と数百円」これは糸井重里が新潮文庫のために書いた、歴史に残る名コピーである。「新潮の100冊」も定番のキャンペーンだ。そのセレクションも最近は首をかしげることもあったのだが。

新潮社社長がするべきことは、謝罪になっていない謝罪ではなく、マジな謝罪をするか、あるいは丁寧な検証、健全な議論の誘発である。

日本の論壇のあり方が問われる事案である。この猖獗した時代に私は警鐘を乱打する。著者たちも、編集者たちも、何より市民が憤激を募らせている。今こそ、巨大な論争を巻き起こすのだ。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2018年9月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。