昨今、巷では「神ってる」や「神対応」というように「神」と付く言葉が散見される。それは、「非常に優れている」という暗喩であると推察する。
そのような存在は、例えば家出少女にとってみれば、見返りを要求せず、無償でお金や食事、寝床を用意してくれる男を指すと言う。果たして、そのように神と崇めるに値する男が少女らの目の前に現れるのだろうか。そして、彼女たちは、神に会えるのだろうか。神を求めてこの瞬間も、彼女たちは神を待ち続けていよう。
社会の自然かつ基礎的な集団である家庭という共同体を失い、街をさまよい、SNSやインターネット空間を浮遊する家出少女たちは、何を想うのだろう。生きる喜びや愛の尊さを喪失してしまい、生の対極である死(自傷行為)に走ることによって、より深い生を感じようとしているのだろうか。それとも、生を性と捉え、女性にとって究極の肉体労働を強いることにより、生の潤沢を感じようとしているのだろうか。
如何なる生き方をしようとも個々人の自由、という考えには同意する。しかし、その生き方によって、誰かに搾取されているとしたらどうか。
『神待ち少女』(双葉文庫、2013年9月15日)の著者、黒羽幸広氏曰く、
「父親を放棄した男と共に成長した「娘」と、大人の男になれないまま「神」を名乗る男が互いの胸の内にある空白を補完するのが、神待ちというゲームの本質」(211頁)
であるとしたらどうか。
神を待つ側は決してリセット出来ず、コントロールされるがまま、というアンフェアなゲームがどこにあろう。その場を法律や条例等でいくら規制したり排除したりしたとしても、プレイヤーは居なくなる訳ではない。例えば、河川敷から路上生活者を追いやったとしても、路上生活者は路上生活者として存在し続けるのと同じ事だ。
しかも厄介なことに、そのような存在は社会において無意識の排除下に置かれてしまう。そして、その存在がより認知されず、表面化しにくくなる恐れがある。
では、そのような存在を知ったとき、我々はどうすれば良いのだろうか。真の神になれるのだろうか。それとも、偽善の神になってしまうのだろうか。そして、神を待つ側になってしまったとき、どうすれば良いのだろうか。
「それは自己責任であり自業自得だ」「それは社会が悪い」
そのように問うたとき、上記のような言葉を良く耳にする。それらの発言は、いずれも責任転嫁を図り、一蹴してしまっている。畢竟、自己から問題を回避してしまっているのだ。本来ならば、他人事としてではなく、自分事として事の本質と正面から向き合い、問題の共有を図って解決の糸口を探ることが必要なのではないだろうか。
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丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、