欧州全土でポピュリズム、外国人排斥、民族主義を掲げる極右政党が台頭し、選挙の度にその勢力を拡大してきた。反難民・移民政策を全面に出したハンガリーのオルバン首相の名をとって“オルバン主義”と呼ばれだした。
そのオルバン主義に先駆け、欧州極右政党のパイオニア的存在だったオーストリアの極右政党「自由党」党首のイェルク・ハイダー氏(Jorg Haider)が10年前の今月11日、クラーゲンフルト南部に住む母親の誕生日を祝うため車で走っていた時、交通事故に遭い亡くなった。58歳だった。ハイダー氏の葬儀は国葬ではなかったが、参列者数と規模では、04年7月に急死したトーマス・クレスティル大統領の国葬を大きく上回ったといわれた。
ハイダー氏の突然の交通事故死後、様々な憶測が流れた。暗殺説も流布した。原因はアルコール飲食(1・8プロミル)とスピード(時速142km)の出し過ぎだった。そのハイダー氏がまだ生きていたら、欧州のポピュリズム的政治スタイルはオルバン主義ではなく、ハイダー主義と呼ばれていただろう。
ハイダー氏は1950年、オーバーエスターライヒ州生まれ。1986年、自由党の党首に選出されて以来、選挙では常勝街道を邁進、得票率4%の小党に過ぎなかった自由党を20%の大台を越える主要政党にまで躍進させた。
ハイダー氏の政治手腕は明確だ。2大政党、社会民主党と国民党の問題点をバッサリと切り、国民には常に「オーストリア・ファースト」を訴えた。政敵からは大衆扇動家として見なされた。
自由党党首として党の勢力を拡大し、ケルンテン州知事を歴任した。敵も少なくなかった。ハイダー氏の生涯の最大の敵は外国人だった。
ハイダー氏はケルンテン州知事時代、第3帝国の正規雇用政策(ordentlichen Beschaftigungspolitik )を称賛し、ケルンテン州自由党党首時代には「ドイツ帝国が出来れば、全て自由になる」と語るなど、ネオナチ的発言で度々物議を醸した。
2000年1月、国民党のシュッセル党首と自由党のハイダー党首が連合を結成した時、欧州全土でハイダー氏の自由党が参加したシュルッセル連立政権誕生に抗議する大きなデモが起き、政権宣誓式には首相府から地下道を歩いて大統領府入りしたほどだった。
欧州連合(EU)加盟国は外交ボイコットを実施した。ハイダー氏は賢明な政治家だった。シュルッセル政権には閣僚入りしなかった。選挙で第3党となった国民党のシュルッセル党首を首相に担ぎ出し、政権を外からコントロールした。最終的には、シュルッセル首相の巧みな包囲網にあって、ハイダー氏は政治力を失っていった。
その後は、自由党から脱党し、新党「未来同盟」(BZO)を結成したが、自由党党首時代ほどの政治的影響力はもはやなかった。そして交通事故でその短い生涯を閉じた。
オーストリア国営放送は11日夜、ハイダー氏死後10年とその生涯を振り返る特別番組を放映した。雑誌や新聞、テレビはハイダー特集を掲載した。ハイダー氏が政界に登場した1980年以後、オーストリアの政治スタイルは大きく変わったといわれている。
当方は一度、リビアの独裁者カダフィ大佐の次男セイフ・アル・イスラム・カダフィ氏歓迎する会合でハイダー氏と会った。ハイダー氏はカダフィ大佐とは仲が良く、オーストリアに一時留学したセイフ・アル・イスラム・カダフィ氏を世話していた。ハイダー氏の人脈は欧州だけではなく、中東まで及んでいた。
「ハイダー氏ほど国民に愛され、同時に嫌われた政治家はいなかっただろう。その意味で、同氏は国民を一体化させるというより、分裂させた政治家であった。それが野党政治家としてのハイダー氏の『運命』だったのだろうか」と、当方はハイダー死後5年目のコラム「オーストリア極右派指導者ハイダー氏の『遺産』」の中で書いた。
ハイダー氏が2015年の中東・北アフリカからの難民・移民の殺到を目撃したならば、どのような政策を訴えただろうか。オルバン首相を凌ぐ厳しい難民対策に乗り出していただろう。ハイダー氏は10年前に亡くなったが、今日、第2ハイダー、第3ハイダーが欧州各地で生まれてきている。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年10月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。