中国が日本を朝鮮のような従属国と考えた歴史はない

八幡 和郎

日本での中国史研究は、中国を聖人の国と理想化する儒学者たちが中心的な担い手であった。日本における本格的な朱子学の導入は藤原惺窩や林羅山によるものだが、藤原惺窩は明や朝鮮による日本侵略を望み、林羅山は中国の史書のなかに日本を位置づけようとした。

そして、戦後には、近代日本が中国や韓国に悪いことばかりしたという自虐史観、媚中史観が盛んになった。

しかも、このふたつの流れは合体して、現代の外交に於いても、日本は中国をリーダーとする新しいアジアの秩序に従うべしと、学校教育でもマスコミでも誘導している。AIIBに日本が参加しなかったときのヒステリックな論調は記憶に新しいし、民主党政権の時は日米中正三角形論といった現実にあり得ない外交政策まで唱えられた。

中国や韓国は古代史に始まって時事問題に至るまで、歴史認識を戦略的に構築し、国民に徹底している。そこに学問の自由はなく国家戦略と民族主義的熱狂があるのみだ。それに対抗するためには、日本人は、日本国家としての主体性を持ちつつ、しかし、中国や韓国と違って国際的な普遍性を併せもった中国史の見方を確立すべきだ。

私は通商産業省で中国担当課長もつとめていたし、中国史の本もすでに3冊書いている。

最近も、「中国と日本がわかる 最強の中国史」(扶桑社新書)という本をだしたばかりだ。そこでその内容も踏まえて、日本人のあるべき対中史観を私なりに示してみる。

李鴻章(Wikipediaより:編集部)

日本と中国の近代的な国交は、1871年の日清修好条規から始まっている。明治新政府が万国公法(近代国際法)に基づいた外交関係を提案し、清国も受け入れた。新政府は朝鮮との外交を先に樹立しようとしたのだが、朝鮮が独立国としての立ち場が曖昧で、中国中心の世界観を押しつけようとしたので、先に中国と交渉することにしたのである。

清国内ではアジアの国については朝鮮と同様の上下関係がはっきりした関係であるべきという意見も地方官など程度の低い官吏の中にはあったが、李鴻章の師匠だった改革派の曾国藩が、「日本にはフビライが大軍を送ったがほとんど全滅させられたし、倭寇に沿岸地方を荒らされたがなすすべもなかった。もともと中国を隣邦と呼び畏まる様子もないので、朝鮮・琉球・ベトナムとは一緒にできない」とし、李鴻章もそれを支持したので、対欧米諸国と同じ対等の外交関係が樹立された。

もっとも、細かく言えば、治外法権を互いに認め合うというところが違ったが、かえって、より完全な対等の関係が確認されたのである。

日本人でも遣唐使時代の唐との関係を、明や清に対し李氏朝鮮が行っていたのと同じ従属的な関係だったと誤解している人がいる。しかし、そんなことは、中国側でも歴史的理解としてしておらず、属国などと思っていなかったのである。そのことが、上記の経緯を見ても分かる。

副島種臣(デジタル大辞泉より:編集部)

もっとも、儀礼と言うことについていえば、19世紀になっても清国では外国の外交団を遣唐使などと同じ朝貢使節として扱っていた。だから、皇帝への拝謁は三跪九叩頭なしに認めないと固執して争っており、皇帝は外交団に会わないままだったのだ。

大英帝国の公使(大使は交換していなかったので公使が最上席)も、なんと、古代中国にやってきたローマ帝国の使節と同じように扱おうとしていたのである。しかし、条約批准のために北京を訪れた外務卿副島種臣は、漢学の知識も動員して粘り強く交渉し、各国の外交団を先導して西洋式の拝謁を認めさせた。

明治の先人たちは、堂々たる主張を中国にして、日本の地位を高めたのみならず、世界の対中外交を主導したのである。

八幡 和郎
扶桑社
2018-09-04