杉田水脈氏の声明に朝日新聞も冷静な反応

杉田水脈代議士の「新潮45」誌上における「LGBTは生産性がない」という記述をめぐっては、論争の中心が「新潮45休刊」と、そのきっかけとなった小川栄太郎氏の論文をめぐる是非に移っていた。

それについては、「新潮45休刊と櫻井よしこ、池上彰への見解など」でも書いたが、時間がたつにつれて、「雑誌を休刊に追い込むほどのことだったのか」「問題があるとしても休刊というのは正しい選択だったか」という疑問も拡大し、とくに、高橋源一郎氏などに対する言論封圧に与したという批判も強くなっているようだ。

そうしたなかで、騒動の発端となった杉田水脈氏がはじめてマスコミの取材に応じ、あわせて、ホームページで声明を出した

まず、杉田氏はこれまで本件についての発言を控えていた理由を、殺害予告メールで捜査が進んでいたためであり、犯人が逮捕されたことを機にコメントすることにしたとしている。

杉田氏やその家族に対して加えられた犯罪予告や、気にいらない言論を殺人と同視して論じる誹謗を垂れ流したNHKなどによる卑劣な攻撃は、「杉田水脈代議士へのメディアリンチ顛末その後」で論じたところであり、そういう異常な状況のもとでは、沈黙はやむを得なかったと思うが、それについては、ここで論じないことにして、問題の発端になった新潮45における杉田氏の記事と今回のコメントについて論じたい。

まず、「新潮 45」への寄稿について杉田氏は、

「LGBT が政治利用されることへの危惧から、LGBT に関する報道の在り方についての疑義を呈することを企図したものであり」

「元より多様性を相互に尊重することは当然のことだと認識しており、当事者の方々の人権を否定するつもりも、偏見をもって差別する意図も一切ない」

「障害者や高齢者、難病の方、子供をもっておられない女性を差別するような言及も一切しておらず、そのような意図は全くない」

としている。

そもそも問題の記事は、「日本を不幸にする『朝日新聞』」という特集の一部であった。私もこの特集で、「不公平な受験を生む『天声人語』商売」という寄稿をしており、大都市の富裕層の新聞である朝日新聞の最近の記事から入試問題が出題されていることの不条理を批判した。ほかの記事のいずれもフェアなものであり、杉田氏の記事も政策の優先順位の問題としてLGBT対策の前のめりに疑問を呈したものに過ぎなかったことは、これまでも書いてきたとおりである。

「生産性」という言葉を使ったことについて、

「しかしながら、当事者を差し置いて LGBT を政治利用すべきでないという思いや、政策の優先順位について私見を述べる目的であったにも関わらず、不用意に『生産性』という表現を用いたことにより誤解や論争を招いてしまったことや、結果として不快と感じたり、傷付いた方々がいらっしゃることを重く受け止めております」

としているが、これは結果責任というべきだろう。

そもそも子どもをつくることに生産性という言葉を、使われてきたことがこれまでもあり、菅直人元首相も堂々と使った一人である。ただ、社会問題について経済用語的なものを使うと揚げ足を取られて危ない目にあうことがよくあり、その意味で不用意だったといえばそうだということなのだろう。

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まして、「LGBTには生産性がない」などという言い方は杉田氏がしたことでなく、誹謗中傷する側の政治家が、「与党議員がLGBTには生産性がない、つまり、生きる価値がないといっている」と、とてつもない歪曲をして、その結果、傷ついた人がいるということであって、その結果責任をとれというのも理不尽のように思うが、日本社会ではしばしばこういうことはあるので同情するしかない。

さらに、杉田氏は

「『性的指向・性自認』と書くべきところを『性的嗜好』と表現したことについて、党の『性的指向・性自認に関する特命委員会』より『誤りである』とのご指導をいただきました。この問題について国会議員としてもっと知るべきことが多いと痛感したところであります」

と述懐している。

いったい、社会通念として性的指向と性的趣向という言葉が厳密に区別されているかどうかといえば、いささか疑問だという気もする。ほかの分野でも国会議員が特定の分野に特別に興味をもって追っかけている人たちの間で使われている用語法に厳密に従うことが要求され、そこからはずれたら、言葉狩りにあうとも思えないが、この方面に限っては、「問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現がある。今後、十分に注意するように」ということなのであろう。

このあたり、自衛隊を暴力装置とかいった官房長官のように、誰しもがドキッとする表現と同視すべきものなのかおおいに疑問があるし、某野党の政治家など問題発言を息を吐くようにしている気もするが、党全体が不適切発言の塊だから許されるのだろうか。

また、

「インターネット上で私が LGBT について私見を述べている動画が拡散されておりますが、当該の動画は約3年前に撮影されたものであり、その後自由民主党の LGBT 理解増進法案について学び、現在は理解を深めております」

というのも、ご苦労なことだ。入党以前の言動を追究されたら困る政治家、とくに野党政治家は多いと思う。「皇室は生理的にやだ!近くで空気吸いたくない」とかいった某党政調会長もいたはずだ。「いまも同じ考えか」と聞けばいいことだ。

以上のようなことで、謝らなくていいことまで謝っているという批判も出てきている。しかし、与党の政治家としては、入党早々、とくに、比例区単独での当選とあらば、仕方ないところだろう。

一方でこの低姿勢のコメントは、それなりに好感をもって迎えられたようで、朝日新聞のこの問題についてのエース記者である二階堂友紀さんが書いた記事も公正なものであった。二階堂進元官房長の孫らしいが、この方面で非常に説得力のある議論を展開している人だ。

杉田氏「不用意に表現用いた」 「生産性」寄稿に見解(朝日新聞デジタル)

そして、ここからは、杉田氏の問題から離れるが、その二階堂記者の記事の最後にこんな一節があった。

「寄稿では、同性愛を肯定する報道を疑問視し、「普通に恋愛して結婚できる人まで、『これ(同性愛)でいいんだ』と、不幸な人を増やすことにつながりかねません」とも主張したが、見解ではこの記述には言及していない」。

私はここのところは、言葉狩りに走らずに議論して欲しいところなのだ。音喜多都議の騒動とも関連してくるのだが、「人間社会において、男女が結婚して子どもをつくり、互いに貞操を守り、できれば離婚などせずにふたりで協力して子どもを育てるというのが、好ましい基本形であるが、いろんな事情でそうはならないこともあるから、そういう状況でない人にとっても生きやすい社会でなければならない」ということなのか、そもそも、上記のようなのが基本形だという発想が間違っているのか、そんな簡単に決められることではないと私は思う。

価値観も、経済状況も、そして生命科学も大きく変容するなかで、あまり予断をもたずに、自由な議論がされるほうがよいと私は思っているし、私自身、確信をもって自分の体系をつくるにはならず、試行錯誤している途上である。

こういう分野で根本的な議論を日本人は嫌がり、場合によっては、極端にラジカルになる。たとえば、堕胎を日本人ほど躊躇なくさほど議論せずに無条件に容認してきた国民なんていないのではないかと思うが、それでいいとは思えない。

追伸:石破茂氏が、TBSのCS番組「国会トーク フロントライン」で、杉田水脈議員が表現を撤回しなかったことについて、「撤回するのかしないのかきちんと言わないと、いつまでも引きずる」「けじめはつけないと党の自浄能力が問われる」と語り、党の執行部に対応を求めたそうだが、数々の非常識な発言を自民党の寛容性がゆえに許され甘えてきたのが石破氏ではないか。「お前が言うか」というべきだろう。

八幡 和郎
ワニブックス
2018-09-07