国民保護は国家の義務と自己責任の間で

清谷 信一

シリアで3年以上拘束されていた安田純平氏が解放されたことについて、擁護派と否定派の論戦が続いています。擁護派は戦場ジャーナリストとして勇気を褒めたたえ、国家が国民の命を守るのが当たり前だといい、批判派は政府からも危ないとこに行くなと言われていて行ったから自己責任を果たしていないというものです。

まあ、フリーランスのジャーナリストという立場から言わせてもらうと、どっちもどっち。目くそ鼻くそを笑う、みたいなもんです

まず国家に自国民の保護の義務があるのは否定しません。それは国家の責務です。

だからといって、戦場ジャーナリストを立派な職業だと断言して、彼を英雄視するのも違うと思います。

例えばぼくが毎年ろくな準備もせずに、紛争地にいってそのたびに何十億円か身代金払ってもらって解放されて何十年もそれを続けたとして、みなさん、ぼくを「立派なジャーナリスト」だと褒めてくれますか?ということです。

我々フリーランスのジャーナリストはプロですから、自分のケツは自分でふくのが基本です。大会社の社員ではありません。だからできる限りの準備をして事に臨む必要があります。

例えば、ぼくはほぼ隔年で犯罪発生率が異常に高い南アフリカに行っているわけですが、細心の準備を払っています。ホテルもそのエリアが安全かどうかは数年で変わったりしますし、飛行機の機内でも窃盗やスッキミングがあります。こういうことにいちいち注意を払っています。

ですが、24時間緊張が続くかといえば、それは無理です。ですから100パーセントの安全は確保できません。最悪の場合殺されるともあると一応覚悟はもって取材にいっています。実際刺されそうになったり、撃たれそうになったこともあります。

取材するベネフィットと不利益、危険性を考えて行動するのがプロです。

ですからぼくは中国の取材は面白いと思いますが、我が身が可愛いので中国に入国しません。拘束されるという危険性だけでなく、弱みを握られてスパイにされるという危険性があるからです。そのリスクを負ってまで得られるベネフィットがある、あるいは自分の生命、ジャーナリスト生命を掛けるだけのバリューがあるとは思わない。だから行きません。

戦地や紛争地は更に危険なわけですから、なおさら十全な準備、更には覚悟が必要です。
ぼくは報道やビデオを見る限り、安田氏には準備と覚悟が不十分だったと思います。

また紛争地域では今回のように拘束される可能性もあります。そしてそれが政治やプロパガンダに利用される可能性もあります。自分の報道よりもそちらの方がより大きな発信力を持った場合の可能性も考慮すべきでしょう。果たして安田氏がそこまで考えていたのか疑問です。

ぼくらの仕事は常に他者から批判される可能性があります。それは仕方のないことです。

ですがぼくがツイッターで安田氏を批判したら、安田氏のお友達の岩上安身氏から罵倒を受けました。その後反論したら彼はぼくをブロックしました。

自分が殺される状況になってから同じことを言えって。

つまり岩上氏はそういう状況になった意外の人間は安田氏を批判するな、不敬であると主張しているわけです。

それは事実上安田氏に対する批判許さない、ということです。
これは換言すると、ジャーナリストの記事や行動は全て正当化される、自分たちは無謬だといっているわけです。

まあ、ぼくは刺されそうになったり撃たれそうになったりしたことがあるから批判してもいいわけですよね。

このレベルの認識でジャーナリストでございの胸を張っているのは噴飯ものです。
こういう態度がジャーナリズムなんですかね自分たちが批判するのは大好きだけど、批判されるのは許さないというのは随分ナイーブだしプロとして失格だと思いますよ。

こういう経験をするとお友達の安田氏も同じ程度の人間か、と思われても仕方がないでしょう。

自分たちは正義であり、批判するやつは悪であるとでもいうのでしょう。
それはジャーナリストではなく、カルトの主張です。それが言い過ぎなら、普段御自分が批判している安倍政権と同じ程度のメンタリティと言っておきましょう。

また戦場ジャーナリストを美化するのも考えものです。どんな職業でも全員が全て善人で世のため人のため働く使命感に燃えて、自己犠牲を厭わないなんてことはないでしょう。医者や弁護士だって全員がそういう人たちじゃないでしょう。

ぼくは戦場ジャーナリストにも知人が友人が少なくないわけですが、あの業界、売名行為が目的だったり、活動家崩れだったり、単に戦争が好きだとか、頭のネジがトンだのとかが少なくないです。あと多いのは、戦場の刺激に中毒を起こした人たちです。ある意味命を掛けたギャンブルですから面白くないはずがない。それを繰り返すうちにその刺激がないと生きていけなくなる。こういう人が多いです。ですからぼくは基本戦場には行きません。

あと厄介なのが正義感にあふれるタイプ。自分が正義だから反論するやつは全部敵。あとこの手のタイプは取材対象に過剰に思い入れをもって、客観的に取材対象をみれなくなる。結果情緒やイデオロギーに基づく、フェイクニュースを垂れ流す。

ベトナム戦争にぼくは正義を感じませんが、では反戦派の戦場ジャーナリストが公平な取材をしたでしょうか。始めから米軍=悪というスタンスで、ソ連や北ベトナムの弾いた三味線で踊っていた連中のいかに多かったことか。

コソボ紛争では西側メディアはコソボ側が正義、セルビア悪、というスタンスの報道が主流でしたが、実はコソボ側の方が悪かったという、あるいはどっちもどっちだったというのが実際のところでしょう。

ですが、セルビアを一方的に悪と決めつけて報道した「戦場ジャーナリスト」も多かった。実際にセルビアに取材に行った折に、当時の報道について聞いてみると、報道はアンフェアだった話すセルビア人がとても多かった。

それに一般の人たちは多くが自分の乏しい知識と単なるイメージで戦場ジャーナリストを美化しているようにも思えます。ぼくが軍事ジャーナリストです、と自己紹介するとよく言われるのが「戦場いくんですか?」か「右翼ですか」です。

別にぼくはベレー帽かぶってカメラマンベスト着て戦場に行くわけでも、特攻服きて街宣車で喚いたりするわけではありません。取材時は背広にネクタイが多いです。ですから戦場ジャーナリストとは同じ国には住んでいますが、別な部族です。と説明します。

つまり自分の「正義」というバイアスを通すと、他人を傷つけることもあるわけですが、正義にかぶれるとそれがわからなくなります。ある意味戦時中の国防婦人会と同じメンタリティで人権意識の欠如でもあるのですが、本人にはその自覚がない。

この手合は確信犯的にやっているのもいますが、無自覚な連中も少なくない。そして後者のほうがより剣呑です。自分が正義と思い込んでいるから始末が悪い。

現場に行けば「真実」が落ちているとは限りません。例えば平壌にいって「労働者の天国」という記事を描いちゃった人たちは多かったわけです。

非常に高いストレスにさらされる、極限状態の紛争地域で、取材対象を客観的に捉えて、なおかつ自己の安全を保持するのは極めて困難であり、適性が必要かと思います。ですが、適性のない人たちが少なからず、あの業界にいます。

その意味ではフリーランスより組織で動けて、金もあり、装備もいいものを揃えられる新聞社やテレビ局の方が、より良い質の取材ができるはずです。ところがコイツラは現地に行かずに、フリーランスを鉄砲玉代わりに使っている。で、今回も安田氏を持ち上げる。

ですが、我々フリーランスを記者会見や他の取材機会から排除している記者クラブ会員メディアが安田氏を持ち上げるのは一種のブラックジョークです。

個人的な見解をいえば、儲かりもしない仕事をやっているのは好きでやっているからです。ぼくだって防衛相や自衛隊の提灯記事描いている方が楽ですが、それは楽しくない。だからいって世のため人ためとか正義感でやっているわけでもない。まあ、結果としてそうなることはありますが、自分が正義だと思うとアレな人になってしまうと思います。

ある意味僕らは人の不幸で飯を喰っている商売であり、そういう自分を見つめる必要があると思います。

敢えて誤解を恐れずいえば軍事ジャーナリストなんぞ、日がな一日人殺しの手練手管を考えているわけで、自分が「人物」なんぞと思い出すとあれこれ勘違いをすると思います。

戦場ジャーナリストは全て尊敬すべき対象であり、彼らに対する批判は人権的に許されないというのは全体主義的な考え方であり、人権、そしてジャーナリズムからは最も遠い考え方だと思います。


編集部より:この記事は、軍事ジャーナリスト、清谷信一氏のブログ 2018年10月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、清谷信一公式ブログ「清谷防衛経済研究所」をご覧ください。