2018年10月26日発売の『月刊Hanada』12月号の総力大特集「『新潮45』と言論の自由」で、LGBT事案の核心部分について論理的に分析しましたが、当該事案において言論空間を歪める最大の原動力となっているのが、「沈黙の螺旋」という言論封殺プロセスです。本記事においてはこのプロセスの危険性とそれを打破する存在である「ハードコア」と「アヴァンギャルド」について取り上げてみたいと思います(冒頭画像はNASAの著作権フリー画像)。
沈黙の螺旋
社会の構成員は、しばしば社会にとって理不尽に損害をもたらすことが危惧される他の構成員の言説を批判します。批判が妥当な場合にこの行動自体は合理的ですが、これがときに【人格攻撃 ad hominem】に発展し、言説ではなく人間自体の否定が行われます。このような状況を観察した構成員は【孤立への恐怖 fear of isolation】から、賛否に拘わらず言説への賛同を回避する傾向があります。このような沈黙により、社会は同種の言説を許容しないよう極性化していき、最終的に完黙という形のタブーを生みます。このようなタブーの形成プロセスを政治学者のElisabeth Noelle-Neumann (1993)は【沈黙の螺旋 spiral of silence】と名づけました。
このプロセスに深く関与しているのがマスメディアによる画一報道です。マスメディアが一方の考えが支配的であることを示す報道を行うと、他方の考えをもつ構成員は孤立への恐怖を確信することになります。特に日本の場合、新聞とテレビのニュース・ワイドショーが一糸乱れぬ論調を示すことが珍しくなく、極めて大きな【同調圧力 peer pressure】が作用することになります。そして結果として、表現の自由が抑圧される環境が形成されることになるのです。
さて、政治とは基本的に国民に富を再配分するシステムです。政治における政策とは、国民から集めた一定の財源が最大の効果をもたらすよう一定の基準に基づき国民を非線形なカテゴリーに区分し、その分配比率を決定するものです。つまり、政策の恩恵はすべての国民が均等に受けるのではなく、各国民の置かれている状況に応じてプライオリティが設定されるということになります。このとき、財源は一定なので、カテゴリー間において、一方が優先されることによって他方が劣後されるという【トレードオフ trade-off】の関係が生じます。ここに、社会の構成員の価値観は多様であるので、政治家がいかなる政策を提案したとしても、再配分を行う限り、必ずその効果を不服とする構成員が現れます。そしてこの不服を持つ構成員の立場に立てば、必ず政策提案者を批判することが可能となります。
野党・マスメディアによる政府批判は基本的にこのメソッドに従うものがほとんどであり、自らを由とする政策を示すことなく、政府の提案する政策のメリットを無視してデメリットのみに着目することで徹底的に政府を批判します。そしてそのデメリットを受けるステイクホルダーを政府の政策によって差別される可哀想な被害者と認定する【奴隷道徳 master-slave morality】を展開することで沈黙の螺旋を形成するのです。
『新潮45』事案における沈黙の螺旋
杉田水脈議員は「度が過ぎるLGBT支援」というエッセイを『新潮45』8月号に寄稿しました。これは一般に「杉田論文」と呼ばれています。この8月号が発売されて間もなく、杉田論文中の「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。」という言説に使われている「生産性」という言葉がインターネット上で大きく問題視されました。その中でも最も大きなインパクトがあったのが、自分がレズビアンであることを公言する立憲民主党の尾辻かな子議員のツイッター上での批判です。論理的な詳細は『月刊Hanada』12月号をお読みいただければと思いますが、杉田論文の「生産性」という言葉は、尾辻かな子議員の【論理の飛躍 leap in logic】による【ストローマン論証 the strawman】によって歪められ、杉田議員はあたかも【優生思想 eugenics】の持ち主であるかのように【悪魔化 demonization】されました。
このツイートに呼応するように、杉田論文の論点は単純な善・悪の問題に【論点変更 shifting to another problem】され、一部のLGBT当事者・反政府活動家がSNSや街頭デモを通して杉田議員に対して熱狂的な人格攻撃を行いました。そして、その人格攻撃を促したのは、一色に染まった一方的な報道を繰り返したマスメディアでした。『NHKニュースウォッチ9』は杉田議員を優生思想の持ち主であるかのように吊し上げ、朝日新聞出版『AERA dot.』にいたっては杉田議員を【容姿差別 lookism】しました。これらの【魔女狩り witch-hunt】的報道により、杉田議員の原著を実際には読んでいないほとんどの大衆は、【モラル・パニック moral panic】を起こし、杉田議員を社会的害悪の一般イメージである【フォーク・デヴィル folk devil】として認定したのです。社会が興奮する中、杉田議員には殺害予告もあり、杉田論文に対する説明すら不可能な状況に陥りました。ここに、たとえ杉田論文批判に懐疑的な意見を持っていても、「孤立への恐怖」から言明することは困難となる「沈黙の螺旋」が形成されたと言えます。以降、行き過ぎた杉田批判への反論は、『アゴラ』『月刊Hanada』での八幡和郎先生のエッセイなどごく少数に限られたと言えます(ちなみに私も[拙著]でその行き過ぎに反論しています(笑)。
そんな中、沈黙を破るように『新潮45』10月号に「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という特別企画が組まれ、7人の著者による杉田論文の一部の批判に対する反論が掲載されました。しかしながら、この企画はさらなるモラル・パニックを生み、沈黙の螺旋はさらに強固となりました。特に著者の一人の小川榮太郎氏の反語的表現が【記述主義の誤謬 descriptive fallacy】によって文字通りに解釈され、小川氏は一部の読者から痴漢の擁護者と認定されるに至りました。その後、同書を出版した新潮社の前には100人を超える活動家らが集まり、抗議のデモが行われました。言論に対して言論で戦わずに実力行使するこのようなデモは言論の自由に対する冒涜であり、けっして許容するわけにはいきません。しかしながら、何を勘違いしたのか、新潮社自体がモラルパニックを起こして『新潮45』の休刊を決定しました。まさに、言論の敗北です。沈黙の螺旋が下方の中心に到達して言論が完黙したのです。
ハードコアとアヴァンギャルド
さて、沈黙の螺旋は、同調圧力によって意見を持っていない人に一方的な意見を提供し、同じ意見を持っている人の態度を固定し、異見を持っている人の態度を変更させますが、このような圧力に屈することなく自説を主張するのが、「ハードコア」と「アヴァンギャルド」と呼ばれる人達です。
このうち、【ハードコア hardcore nonconformist】は信念によって固定された価値観を持ち、同調圧力に対して態度をけっして変えることがない存在です。杉田水脈議員はハードコアの典型であり、常にぶれることなく伝統的な価値観を持つ保守の立場からタブーに斬りこんできたと言えます。また、福島瑞穂議員もハードコアの典型であり、誤解を恐れずに言えば、常にぶれることなく進歩的な価値観を持つ革新の立場からタブーに斬りこんできたと言えます。環境変化に追従することがないハードコアは、思考停止に陥いる可能性があり、必ずしも合理的な存在とは言えませんが、常に言論の多様性の一翼をなすことを考えれば、貴重な存在であることも確かです。
一方、【アヴァンギャルド avant-garde】は既存の価値観にとらわれることなく、最先端の知識体系に立脚した合理論を展開し、同調圧力に対して態度をけっして変えることがない存在です。『アゴラ』の池田信夫さんはアヴァンギャルドの典型であり、持論を自在に操って是々非々でタブーに斬りこんできたと言えます。理想的な言論空間とは、意見が異なる池田信夫さんが何人も存在して(笑)、ハードコアも含めて堂々と広場で是々非々の議論を展開することかと思います。
なお、ハードコアとアヴァンギャルドは言論に臨むスタンスが真逆であるため全く異質な存在ですが、共通するのは孤立への恐怖に屈しない「勇気」を持っていることです。
エピローグ
マスメディアが沈黙の螺旋の形成を主導し、しばしば特定の言明に勇気を必要とする空気がとりまく日本の言論空間は健全ではありません。このような状況を打破するには、国民が沈黙の螺旋に対して危機感を持ち、不当な同調圧力を与える影の権力に対してけっして沈黙しないことが重要であると考えます。ちなみに今回、『新潮45』事案における沈黙の螺旋にとびきり大きな危機感を持っていたのが、雑誌界のアヴァンギャルドである花田紀凱編集長です。
編集部より:この記事は「マスメディア報道のメソドロジー」2018年10月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はマスメディア報道のメソドロジーをご覧ください。