私が安岡正篤先生と並んで私淑する、明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生は『修身教授録』の中で、次のように述べておられます--人生を山登りに喩えますと、四十歳はちょうど山の頂のようなもので、(中略)山の頂に達すれば、わが来し方を遙かに見返すことができるとともに、また今後下り行くべき麓路も、大体の見当はつき始めるようなものです。
私自身よく知らなかったのですが、「中年の危機(midlife crisis)」という言葉があるようです。上記の通り、自分の来し方行く末に思い巡らせる時、40歳位になれば後の人生がある程度見えるということでしょう。仕事においては、それなりの実績を上げた人の方が「あぁ、サラリーマンとして自分は駄目だ。この程度しか出世も出来なかったし…」といったふうに考えて、40代で一種の鬱になって行くような人が結構いるらしいのです。イタリア・フィレンツェ出身の大詩人、ダンテ・アリギエーリ(1265年-1321年)の大作『神曲』の中に、「人生の旅のなかば、正しい道を見失い、私は暗い森をさまよった」とあります。これ正に中年の危機、ミッドライフ・クライシスの描写かもしれません。
あるブログ記事(16年2月13日)では「40歳になってようやくわかる8つのこと」として、①40歳は、会社の中で出世ができるかどうかが、ある程度見える/②40歳は、肩書ではなく何をやったかだ、と知る/③40歳は、「このまま逃げ切ろう」という人と「これからが本当のチャレンジだ」という人が分かれる/④40歳は、「結局、家族や友人が最も大事だ」と気づく/⑤40歳で、真の感謝を知る、等が挙げられています。中年の危機に陥り易い思考をするような40代の人にとっては、①「会社の中で出世ができるかどうかが、ある程度見える」時期に、②「肩書ではなく何をやったかだ」と知り考えたところ大したことを何もやっていない、といったケースが一番の悲劇になるのかもしれません。
私自身はと言うと、嘗て『任天・任運~最善の人生態度~』(15年7月8日)と題したブログ等にも書きましたが、最終的には「天に任せる」「運に任せる」という考え方で今までずっときています。当初期待したような結果が得られなかった場合も、「失敗ではない。この方が寧ろベターなんだ」と、常に自分に言い聞かせながら生きてきている人間です。ですから、そもそも挫折したと思うこともなく、中年の危機の如きクライシスを経験したこともありません。
唯40歳というのは、己の来し方を大いに反省するタイミングであることは間違いありません。ある意味その歳までずっとやり続けた事柄につき振り返ってみて、「この程度だ。自分には何もなかった」とか「俺の人生、大したものでもなかった」とかと考えるところから寝られないようになったり、「もうこれで出世競争から外れてしまった」とか「今後どうやって生きて行ったら良いのだろう」とかとばかり考えていては駄目です。③「これからが本当のチャレンジだ」とか「ゼロから今一度出発してみよう」とかという気になる方が、私は良い生き方だと思います。
他方で④「結局、家族や友人が最も大事だ」としている人には、私に言わせれば、ある面で競争で決着がついたが為③「このまま逃げ切ろう」という人が結構多いよう感じられます。例えば、安岡先生も座右の銘にされていた「六中観(りくちゅうかん):忙中閑有り。苦中楽有り。死中活有り。壺中天有り。意中人有り。腹中書有り」の一つ、「壺中天有り」の次の故事は、9年程前のブログ『心の病にどう対処すべきか』等で御紹介したものです。
――昔費長房という役人がいました。この人が役所の二階から下の市を見ていたところ、遅くなって皆が店を畳んでいるにも拘らず、一人の老人はいつまで経っても畳まずに残っていました。「なぜだろう」と思って見ていると、その老人は壺を取り出してその中に入って行きました。その老人は仙人であったということです。翌日も同じような光景があり、この役人は「自分もその壺の中に連れて行ってもらおう」と考えてその老人と談判し、一緒に連れて行ってもらえることになりました。そして、その壺の中は素晴しい別天地でありました。
人間、行き着く所まで行ってしまったら違った世界に行き新たに自分を見出すべく、趣味を持つことでもスポーツをすることでも何かちょっとした類で意識を変えて行こうとするのは、それはそれで良いと思います。しかし「人生100年時代」と言われている中で、40歳で逃げる人生を選択するのは早過ぎるのではないでしょうか。40代とは基本、新たな挑戦に踏み出す時期として捉えるべきだと考えます。
最後に、⑤「40歳で、真の感謝を知る」のは、あり得ないだろうと思います。仏教では「人身受け難し」として、この世に人の身で生まれてきたということ程、ありがたいことはないではないかとしています。また感謝と言った場合に同世界では、「顕加(けんが):目に見える何かをして頂いたことへの感謝」と「冥加(みょうが):表に表れない、見えないものへの感謝」という二通りがあります。
例えば、日々我々が美味しく食事が出来るのは、米を作ってくれる人がいたり魚を獲ってきてくれる人がいるからであって、そういう気持ちで全てに対する冥加も含め、あらゆる事柄に感謝する気持ちを常に持たねばなりません。そして真の感謝とは、「無窮なる民族生命の無限の流れの末端に、この私も生かされている」(『修身教授録』)、これまで本当に生かされてきた、と棺桶に入る前に思い、最後に感謝をすることだと思います。
以上、長々と述べてきましたが40歳は山の頂ということでは過去、『仕事との向き合い方~20代・30代・40代・50代~』(13年8月20日)や、『人生の折り返し地点』(16年10月31日)と題したブログも書きましたので、御興味のある方はそちらも読んでみて下さい。
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