現代のバベルの塔と「言葉」の復活

「言葉」はそれぞれ一定の意味を内包しているが、その意味を次第に失ってきた。換言すれば、人が発する「言葉」を他の人が信じなくなってきた。それが進行すると、「言葉」はフェイクとみなされてきた。「言葉」は混乱し、「言葉」本来の意味とは違った意思の伝達手段となってきたのを感じる。

▲フランスの画家ギュスターヴ・ドレの作品「言語の混乱」(ウィキぺディアから)

昔、人類は神のようになろうとして天にまで届く高いバベルの塔を建てようとした。それを見た神は怒り、塔の建設に関わってきた人々の言葉を混乱させ、相互に意思が疎通できないようにした。その結果、人類は共通の言語を失い、無数の言語が生まれた。だから、相互理解するためには通訳や翻訳が不可欠となった。「バベルの塔」の話は旧約聖書「創世記」第11章の中に記述されている。

現代は通訳の水準も高まり、自動翻訳の道も開かれてきた。相互理解の道が考えられないほど広くなったが、同時に、「言葉」の混乱が生まれてきた。口述の「言葉」は正しく通訳できても、その「言葉」が意味を失ってきたのだ。神のように全知全能の世界を夢見る人類を前に、「言葉」は意味を失い、相互理解は難しくなる一方、紛争や誤解が拡大してきた。メディアではフェイクニュースといわれる偽りの「言葉」が発信され、恣意的に事実を操作する“フェイク言語”が広がってきた。現代のバベルの塔だ。

このコラム欄でも報告したが、独週刊誌シュピーゲルの捏造記事はその典型的な実例だろう。そこでは事実は操作され、その「言葉」は事実とは異なった印象、理解を読み手に与えるために高度に洗練されている(「シュピーゲル記者の『虚構の世界』」2018年12月25日参考)。

発される「言葉」が本来の意味を失うことで、相互間に誤解と不信が生まれる。「政治不信」といわれる現象は、政治家が発する「言葉」が意味を失った結果だ。「言葉」が信じられないから、それを発する政治家への不信となって跳ね返ってくる。

現代は「言葉」が軽くなってきたといわれる。「言葉」が持っていた多様な意味をひとつ、ふたつ失うことで「言葉」自身の重さが失われ、軽くなってきたわけだ。新年は「言葉」の復活が願われる。美しい言葉が溢れることを希望したい。

今年は1日も休むことなくコラムを365日間更新できた。当方の生活手段は「言葉」だ。可能な限り正しく伝達するためにそれに相応する「言葉」を考え、その「言葉」で事実を再構築し、自身の考えを発信する。その意味で「言葉」は生活の糧だが、何年たっても言葉探しは容易ではない。40年余り、海外で生活していると正しい日本語が直ぐには浮かんでこない。大げさな表現となったり、おかしな文章となったりする。送信した後、文法上の過ちだけではなく、意味の不明な個所を見つけては自己嫌悪に陥ったりする。毎日が「言葉」との試行錯誤だ。

最後に、当方が心動かされた「言葉」を紹介する。オーストリアの精神科医、心理学者、ヴィクトール・フランクル( Viktor Emil Frankl,1905~1997年)の有名な言葉だ。フランクルは“第3ウィーン学派”と呼ばれ、ナチスの強制収容所の体験をもとに書いた著書「夜と霧」は日本を含む世界で翻訳され、世界的ベストセラーとなった。独自の実存的心理分析( Existential Analysis )に基づく「ロゴセラピー」は世界的に大きな影響を与えている(「どの人生にも『意味』がある」2015年3月27日参考)。

Wenn Leben uberhaupt einen Sinn hat, mus auch Leiden einen Sinn haben.
Es kommt nicht darauf an, was man leidet, sondern wie man es auf sich nimmt.

「人生に生きる意義(価値)があるとすれば、(人生で体験し、直面する)苦悩、苦痛にも意義(価値)がなければならない」

「何を苦悩するかが問題ではなく、どのようにその苦悩と向かい合うかだ」

この1年間、当方のコラムに付き合って下さった読者の皆様に感謝します。よき新年をお迎え下さい。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年12月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。