オーストリア、「無神論者」の大統領が頭を下げた

オーストリアのアレクサンダー・ファン・デア・ベレン大統領は3日から5日間の日程でイスラエルとパレスチナを訪問中だが、エルサレムの「嘆きの壁」の前やユダヤ人大虐殺の犠牲者を追悼するためのイスラエル国立記念館(ヤド・ヴァシェム)の慰霊碑の前で頭を下げて立っている大統領の写真はこれまで見た中で最も神聖な雰囲気が漂っていた。

▲ユダヤ人犠牲者の慰霊碑の前のアレクサンダー・ファン・デア・ベレン大統領(オーストリア大統領府公式サイトから、2019年2月4日)

▲ユダヤ人犠牲者の慰霊碑の前のアレクサンダー・ファン・デア・ベレン大統領(オーストリア大統領府公式サイトから、2019年2月4日)

ファン・デア・ベレン大統領は、「オーストリアはショア(ユダヤ人虐殺)の共犯者であり、多くの国民は犯罪者だった」と語った。オーストリアは昨年、ヒトラー・ナチス政権のオーストリア併合(Anschluss)80年を迎えたが、ファン・デア・ベレン大統領は昨年の新年の演説で、「今年はヒトラー・ナチス政権のわが国併合80年目を迎える年だ。わが国はヒトラーの犠牲国であると共に、加害国だったという事実を単に記憶するだけではなく、心の中でしっかりと留めておかなければならない」と述べている。

正直言って、当方はマルクス経済学教授だった同大統領(75)には余り関心がなかった。2016年12月の大統領選でも密かに対抗候補者を応援していた。大統領は旧ソ連からの移民の子であり、その人生は通常の人以上に苦労があっただろうと推測するが、「緑の党」党首時代から大統領の言動には共感できなかったからだ。

オーストリアの前大統領、ハインツ・フィッシャー氏(社民党出身)は、「自分は不可知論者だ」と述べていた。「神の存在を否定しないが、肯定もしない。自分はその存在をが認知できないからだ」と弁明していた。フィッシャー氏は賢明な政治家だった。カトリック教国のオーストリアで無神論者であると告白したなら、国民の支持を得られないことを知っていたから、不可知論者だと表明したのだろう。一方、ファン・デア・ベレン大統領は大統領選で宗教について質問された時、「自分は無神論者だ」と答えている。

ファン・デア・ベレン大統領もどこかのメディアで「不可知論者だ」と答えたことがあったが、神の存在にはこれまで懐疑的だったことは間違いない。旧ソ連出身の彼には神に出会う機会がなかったのかもしれない。その彼がイスラエルを訪問し、慰霊碑の前に頭を下げている写真は非常に感動的なシーンだった。

ところで、大統領は慰霊碑や「嘆きの壁」の前で祈っていたのだろうか、それとも瞑想していただけなのか。祈っていたとすれば、彼は誰に向かって祈っていたのだろうか。無神論者の彼に祈りを聞いてくれる主体がいるのだろうか。それとも犠牲者となったユダヤ人の前に頭を垂れ、オーストリア国民の代表として謝罪を繰り返していたのだろうか。第3者の当方には推測する以外にない。ただ、頭を下げて慰霊碑の前に立つ大統領の姿を撮った写真は、繰り返すが当方の大統領のイメージを覆すほど感動を与えたことは事実だ。

先月28日に死去した旧日本軍の慰安婦被害者・金福童さんの告別式が1日、ソウルの日本大使館前で行われた。日本大使館前で、亡くなった慰安婦を支援する人々が抗議デモする写真を見た時、どうしようもないやりきれなさ感じた。外国公館や外交官の保護を明記したウィーン条約を違反しているからではない。死者の霊が安らかになるどころか、叩き起こしているように見えたからだ。それは、死者への冒涜のように感じた。

ソウルの日本大使館前の抗議デモ写真を見た直後だったこともあって、イスラエルで頭を下げるファン・デア・ベレン大統領の写真は当方の心を一層揺り動かしたのかもしれない。

ファン・デア・ベレン大統領は慰霊碑の前で加害国の大統領として謝罪していたというより、死者の霊が安らかになるように祈っていたのではないか。神の存在云々はどうでもよかった。とにかく、死者の霊が癒されることを願って頭を下げていた。

怒りや憎悪の虜になれば、本人も周囲も苦しくなる。われわれは常に被害者だったということはないし、加害者であったわけでもない。犠牲者となった時もあるが、加害者であったこともあったはずだ。それは個人だけの話ではなく、家庭、民族、国家も同じだろう。

多くの同胞を失ったユダヤ民族は、時間の経過と共に、加害者への恨みや憎悪よりも、死者の霊に安らぎを求める思いが強まってきたのではないか。同じように、韓国国民は悲惨な歴史時代に犠牲となった死者を揺り動かし、生前の怒りを燃え立たせるのではなく、死者の霊が安らかになるように祈ってほしい。生存する23人の慰安婦をいつまでも反日の道具に使うのではなく、平安な心を取り戻したいと願っている犠牲者の安らぎを大切にしてほしい。犠牲者が過去の痛みで心の整理ができれば、加害者からの謝罪有無はもはやそれほど重要ではなくなるからだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年2月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。