菅良二今治市長が、山本順三大臣就任祝賀会の発起人となり、会費の受領等の事務局事務を市職員に行わせた問題、昨日(2月14日)に【菅今治市長が市職員に命じた「大臣就任祝賀会」全面サポート】と題する記事で詳しく解説したが、同日、この問題は、衆議院予算委員会でも取り上げられた。
山本大臣は、就任祝賀会については、「招かれて出席しただけ、詳細は知らない」、祝賀会の会費の残りから現金10万円が山本氏側にわたったと報じられていることについては、「報道は全くの事実無根であり、当日は目録を頂戴したが、中身は空っぽの目録だった」と答弁した。
また、この問題についての今治市側の対応について、朝日新聞が以下のように報じている。
菅市長は14日、「社交儀礼であり、市の事務の範囲として認められている。政治的行為に該当しない」などとするコメントを発表した。片上課長は取材に対し、違法性を否定する根拠として、奈良県上牧町が大臣就任祝賀会を主催して公費支出し、住民が違憲として返還を求めた訴訟で「社交儀礼の範囲を逸脱しているとまでは断定できない」などとした1989年の最高裁判例を挙げた。
注目すべきは、(1)週刊文春の取材に対して菅市長が認めている「10万円授受」について、山本大臣が明確に否定する答弁を行ったこと、(2)今治市が、市職員の祝賀会への関与を「市の事務」だとしたことの2つだ。
私が、週刊文春にコメントした時点では、「市長個人が発起人となった大臣就任祝賀会」という「政治的行為」に、市役所職員に関与させたという、「市長個人の問題」であり、「市職員に政治的行為に関わることを命じることのパワハラ的問題」と考えていた。
ところが、今治市は、市職員の関与を「公務」と認めた。そして、一方で、「現金10万円の授受」に関して菅市長と山本大臣の供述が相反している。それによって、この問題は、今後重大な問題に発展する可能性が出てきた。
89年最高裁判例の町主催大臣就任祝賀会と本件との違い
今治市は、山本大臣就任祝賀会への関与を、「社交儀礼としての市の事務」だとし、政治活動ではないとすることの根拠として、奈良県上牧町が大臣就任祝賀会を主催して公費を支出した件についての最高裁判例を挙げているが、これは、今回の件での市の公務としての対応を正当化する根拠には全くならない。
上牧町の事例は、過去に上牧村長を務め、県議会議員から国会議員になった政治家の郵政大臣就任について、町が主催して祝賀行事を行って町の公金を支出したことの違法性が、地方自治法に基づく住民訴訟で問題とされた事案だ。町として予算措置を講じ、議会の承認も受けて行った「公金支出の適法性」の問題であり、地方公務員法の「政治的行為」が争われた事例ではない。
この事案について、一審判決は、
上牧町の挙行した本件祝賀式典は、町民多数の賛意に基き、特別の条例によることなく行われ、その経費は、予算の定めるところにより普通地方公共団体の長の命令をもって収入役がこれを支出したものであって地方自治法232条の3、4の規定に照らし適法であるのみならず、社会的実在としての地方公共団体の通常の社交儀礼の範囲内における支出に該当し、その当不当については見解が分かれるとしても、これを違法とすべき理由は見当らない。
として、この事例において町の「公金支出」が違法ではないとし、最高裁もこれを是認したものだ。大臣就任祝賀式典への自治体の公金支出が、常に「社交儀礼の範囲内」との理由で合法だとしているのではない(しかも、同判決では、「このような式典が政治的な色彩をもつことは否定できないところであり、郷土の誇りとなるスポーツ選手の表彰式典などとは異なり、政治的な対立感情が介入する余地もないではない」などの理由で、「本件祝賀式典に対する公金の支出は社交儀礼の範囲を逸脱するものとして違法と判断せざるをえない」との伊藤正巳判事の反対意見も付されている。)。
一方、今回の今治市の問題は、菅今治市長が個人として発起人となった大臣就任祝賀会の事務局を市職員が務め、会費の受領や管理まで行ったことが、市職員の「政治的行為」に該当し、「政治的中立性」を損なうのではないかがが問題になっているのである。市職員が大臣就任祝賀会に関与することについては、市役所内で正式な決裁手続を経て行われているわけではなく、議会の承認も経ていない。正式な手続による公金の支出の違法性が争われた上記最高裁判例の事案とは全く異なるのである。
理解不能な今治市の対応
本件での市職員の関与が「政治的行為」であることを否定するために、なぜ、関連性が希薄な最高裁判例が持ち出されたのか理解不能だ。
それ以上に不可解なのは、今治市が、市長個人が発起人になって開催された山本大臣就任祝賀会に、市職員を関わらせたという「市長個人の問題」を、なぜ、「社交儀礼としての市の事務」などと、市の組織を巻き込むような理屈で正当化しようとするのかである。
そこには、市長の判断はいかなる場合でも正しいのだから、その「正しさ」を維持するために、関連性が希薄な判例を持ち出してでも、何とか理屈付けをしようとする今治市の姿勢がみてとれる。
それによって、関与した市職員の行為の「政治的中立性」の問題や、それを指示した菅市長の政治責任の問題だけではなく、
そもそも今治市の行政は、法令に基づいて適正な手続によって行われているのか
という点にも深刻な疑念を生じることになるのである。
「現金10万円授受」をめぐる問題と祝賀会の「政治資金パーティー」性
今治市が、山本大臣就任祝賀会への関与を、「社交儀礼としての市の事務」だとして「公務」であると認めたことは、山本氏に対する「10万円現金供与」問題にも重大な影響を与える。
この問題については、山本氏は、「中身は空っぽの目録だった」として授受を全否定している。週刊文春の取材では認めていた菅市長も、改めて質問すれば、山本氏に合わせる方向に答を変えるかもしれない。
しかし、週刊文春の方でも、当然取材の際は録音をとっているはずであり、簡単に翻すことができるはずはない。「記憶違いだった」というような話をし始めれば、祝賀会の資金の流れをめぐる疑惑を一層深めるだけでなく、今治市のトップである市長に対する信頼が、大きく損なわれることになる。
さらに問題なのは、今治市が、「公務」だと認めた市職員の関与の中に、「参加費1万円を領収する事務」が含まれており、市側が「会費は課が金庫で管理し、現在は費用の精算中」(前記朝日記事)だとしていることだ。祝賀会に関する会計事務が市職員によって「公務」として行われたということになると、公務としての会計処理状況について市議会で説明する責任があるし、それを報告する文書は行政文書として情報公開の対象になる。
「公務」としての会計処理の状況について担当の市職員が市に報告することになれば、当初から、1万円の会費について、どのような使途を予定していたのか、実際にどれだけの費用がかかり、どれだけの残金が生じ、その残金をどのように処理する予定だったのかについて、今治市側が説明責任を負うことになる。その説明如何では、会費の残金を大臣側に提供することを予定していた疑いが生じることもあり得る。それによって、山本大臣就任祝賀会が、「政治資金パーティー」としての性格を持ったものとの疑いを生じさせる可能性もある。その場合、祝賀会への関与が「政治的行為」であることは、一層否定できなくなる。
加計学園問題に影響する可能性
「地元出身の国会議員が大臣に就任したのだから、盛大に祝賀会を行う」というのは、今治市では、当たり前のことだったのかもしれない。しかし、そこに、市民のために公平に公正に、かつ、法令に基づき適正に職務を行うべき市役所の組織や職員が関わることで、問題は全く異なったものとなる。そこでは、「今治市」という自治体の姿勢が、市民を向いたものだったのか、市長や市長が支持する政治家の方を向いたものだったのか、根本から問われざるを得ない。
今治市は、市職員の関与を「公務」と認めたことで市の行政への信頼が損なわれ、市長への信頼も損なわれる。それが、今後、今治市にとって大きな悪影響を及ぼすことは必至だ。
今治市が獣医学部新設に関して36億円の補助金を加計学園に提供したことに関して、補助金が不正な支出だとして住民訴訟が提起されている。
「地方自治体の行政は、法令に基づいて適正に行われている」というのが世の中の一般的認識だ。しかし、今回、菅市長が発起人となった大臣就任祝賀会に市職員を動員した問題で、菅市長が追及され、市当局は、市長の行為を正当化するために、市職員の関与を「公務」だなどと主張するという今治市の姿勢が明らかになると、菅市長が強いリーダーシップで進めてきた加計学園への補助金の支出にも、重大な疑念が生じることになりかねない。
編集部より:このブログは「郷原信郎が斬る」2019年2月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、こちらをご覧ください。