人の気持ちが分からない人

プレジデントオンラインに、「人の気持ちがわからない人の致命的理由3」(18年7月18日)という記事がありました。筆者曰く、そのポイントとは次の3点、①「情」を磨く経験量(時間の長さ、思考の深さを含む)が圧倒的に不足している/②適切な「フィードバック」をタイムリーに得られていない/③職場や家庭における「エンゲージメント」が足りない、だとしています。

人間である以上、喜怒哀楽というものは皆夫々が持っています。どうやったら人は喜び・怒り・悲しみ・楽しむのか、といった人情の機微(きび…表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情)が分かるような人になるためには、自分が日々の生活の場で様々な喜怒哀楽や辛酸を嘗めるようなことを経験したり他の人の喜怒哀楽の場面を観察し、共感を得たり同情したりすることです。

例えば、田中角栄という人は今太閤と呼ばれてもいましたが、彼は豊臣秀吉とある面似た部分があって人情の機微を十二分に理解し、ある意味最も人心を上手く得て圧倒的人気を博した政治家でした。水呑百姓として生まれ足軽から頂上を極めた秀吉に対し、小学校を出ただけの叩き上げで宰相にまで上り詰めた角栄ということで、当然そうした人情の機微を知り尽くしていたのだろうと思います。

あるいは、曹洞宗開祖の道元禅師は、心配りを出来ない弟子には免許皆伝を与えず、それが出来る弟弟子の懐奘(えじょう)には先んじて伝授しました。兄弟子の義价(ぎかい)には、老婆心が足りないと言われたそうです。老婆心とは御節介ではなく、心配りのことです。心というものは視・聴・嗅・味・触の感覚、所謂五感である意味捉えられないものを捉え、物事を推し量って行きます。相手の心の動きを見て相手の悲しみを認識し、自分も同じ境地に入ってその悲しみと同レベルに達し、相手を如何にして慰めて行くかということです。

また、明治の知の巨人・森信三先生も、「人間の智慧とは、(一)先の見通しがどれほど利くか、(二)どれほど他人の気持ちの察しがつくか、(三)何事についても、どれほどバランスを心得ているか」という言い方をされています。同時に私が思うに、仮に他人の気持ちを察することが出来たとしても、その通りに同情的に何かしてあげるとか、その人に沿って媚び諂(へつら)うとか、といったことでは必ずしもないでしょう。

やはりそこには善悪の判断があって、察した結果自体が次の動きに直結するものではありません。しかし、相手の気持ちが分かることが重要であることに違いなく、その通りやってあげられないとしても、その気持ちが分かるか否かで人に対する接し方が大きく違ってきます。私は、そうしたことがある面で人間の知恵(ちえ…物事の道理を判断し処理していく心の働き)ではないかと考えています。

勿論、善悪の判断自体が極めて難しいことだと言えなくもなく、様々な事柄全体を思慮してみても、一体何が本当に正しく何が正しくないのか、良く分からない部分もあります。但し、『大学』に「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」とあるように、人間である以上みな良心というか明徳というものがあるわけで、やはり最終的には自分の明徳に聞き、そして自問自答する中で物事を判断するしかないのだろうと思います。

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