ジャーナリストの池上彰氏は『君たちの日本国憲法』(ホーム社、2019年2月28日)において選挙に関して以下の通り述べている。
結果的に今の政権を選んでいるのは、私たちです。選挙で議員を選んでいるわけですから、私たちにも責任があります。(中略)選挙に行かないということは、「今のままでもいいよ」ということを意味します。であれば、選挙で棄権しても責任はあるのです。(53頁)
ここに言う「責任」の意味は何か。
『明鏡国語辞典 第二版』(大修館書店、2010年12月1日)によると「責任」の意味は2つある。第一に「まかされていて、しなければならない任務」という意味だ。これは事前責任であり、責任を負っているという認識を問題にしているものと言い換えられよう。第二に「ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償い」という意味だ。これは事後責任であり、責任を負っている者が起こした結果を問題にしているものと換言できよう。
それを踏まえた上で考えると、池上氏の言う「責任」の意味は事前責任のことであろう。
まずもって、選挙に行くか否かは自由である。それは日本国憲法第15条第1項において「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と自由選挙が保障されていることからも分かる。
畢竟、主権者だからといって民主主義という制度に必ずしも参加しなければならないということではない。選挙に際して「選挙に行かないからけしからん」などと嘆く人がいるが、ぜひ同条を熟読していただきたい。
そして同条第4項には「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」と秘密選挙が保障されている。ここに言う「責任」の意味は、先に示した解釈に則ると事後責任のことであろう。
そして、池上氏の言う事前責任については、憲法前文に以下の通り書かれている。
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
つまり、国民主権は「人類普遍の原理」なのだ。そのことが前文において明確に謳われている。そして尚且つ「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とある。
このことこそ、池上氏が「責任」と言う由縁であろう。つまり、主権者である以上、議会制民主制や民主主義に対してしなければならないことが本来はあるのだ。それは「厳粛な信託」であり、国政の緒がそれなのだ。
この原理を重んずるのであれば、主権者たる国民は選挙権を放棄したとしても、主権そのものは放棄できないということだ。国民はこのような法則に支配され続けられ、逃れることはできないということなのだ。
そのことに気がついたとき、国民は覚悟する必要があるのかもしれない。それは何も無条件に現状を受け入れるという意味では無い。
主権者である国民一人ひとりが現実主義に立脚し、自らそれを変革しようと試みることが重要なのだ。そして最後は民主主義故、意に反することであっても受け入れざるを得ない状況を目の当たりにする可能性は十二分にある。それは、みんなで決めたことだから仕方ないだろう。
即ち、民主主義とは、選挙をアリバイにして行われる多数派による独裁なのだ。例えば、ある法律を成立させるにせよ、廃止にするにせよ、それは議会における多数派が行い、必ず少数派が存在する。仮に、その存在を尊重するならば、法律は生まれることも無くなることもない。所詮は尊重するだけであり、採用するわけではないのだから至極当然のことだ。
議会制民主主義が多数者の意思に基づいて政治を決定する仕組みでもあることは肝に銘じておく必要があろう。
しかし、その政治の結果に物申すことは主権者である以上、無条件になし得ることである。たとえ、自らが「みんな」の一員でなかったとしても、国民主権主義に基づく表現の自由の行使により自己統治の価値を高めることは何人も出来る。それが帰結するところは、まさしく民主主義なのだ。
国民一人ひとりに与えられた主権とは、政治における最終的な意志決定権である。それは、自己決定権であり、自らの幸福を追求する手段なのだ。そして、無条件に課される責任であり、不可避なものでもあるのだ。
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丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、