「朝鮮半島のハムレット」の幕開け?

長谷川 良

ハノイでの第2回米朝首脳会談の開催5日前の2月22日、スペインの首都マドリードにある北朝鮮大使館に何者かが侵入し、大使館関係者を拘束し、パソコンや携帯電話などを奪って逃げ去るという事件が生じた。スペインのメディアによれば、北大使館を襲撃した10人の犯人グループには少なくとも2人の米国の情報機関関係者がいた疑いが濃厚という。

▲駐オーストリアの北朝鮮大使館の国旗(2018年8月21日、ウィーンで撮影)

▲駐オーストリアの北朝鮮大使館の国旗(2018年8月21日、ウィーンで撮影)

一方、米紙ワシントン・ポスト(電子版)は15日、関係者の話として、マドリードの北朝鮮大使館襲撃事件には、北朝鮮の反体制組織「チョルリマ・シビル・デイフェンス(千里馬民防衛)」が関わっていたという。同組織は、2017年2月のマレーシアの国際空港で劇薬で暗殺された故金正男氏の息子、金ハンソル氏の安全を守るグループで、3月1日、団体名を「自由朝鮮」に改名し、金正恩独裁政権の打倒を目標に臨時政府を樹立宣言したばかりだ。

ポスト紙によると、北朝鮮大使館襲撃の目的は、米朝交渉を担当する金革哲氏が元スペイン大使時代に残した情報の獲得にあったという。

スペインのメディアと米紙ワシントン・ポストの情報を合わせてみると、マドリードの北朝鮮大使館を襲撃したグループはCIAエージェントと「自由朝鮮」のメンバーたちだったのではないか。CIA単独のオペレーション(工作)は言語の問題もあるが、朝鮮語ができる「自由朝鮮」のメンバーがそれに加わっていたとすれば問題はない。

この推測が正しいとすれば、米トランプ政権は海外の反体制組織「自由朝鮮」を資金面で支援していると考えて間違いないだろう。換言すれば、トランプ政権は金正恩朝鮮労働党委員長と非核化交渉を継続する一方、金正恩体制の打倒とその後釜づくりを同時進行的に行っているとみて間違いない。

北朝鮮には冷戦時代の東欧のポーランドの独立自主管理労組「連帯」やチェコスロバキアの「憲章77」といった欧米メディアに知られた反体制グループは存在しないが、体制の打倒を目指した言動がこれまで皆無だったわけではない。多くは事前に発覚し、関係者は処刑されてきただけだ。もちろん、龍川駅列車爆破事故(2004年4月)のように、軍部関係者の関与がなくしては考えられないような大規模なサポタージュや暗殺未遂事件も起きている。ただ、それらの事件が外部に知られることはこれまでほとんどなかった。

北朝鮮情報誌「ディリーNK」によると、北朝鮮の首都平壌市内で今月1日、4・25文化会館の壁に金正恩氏を批判する落書きが見つかり、治安関係者が落書きをした人間を必死で探しているという。4・25文化会館は「金日成主席が抗日パルチザンを創設した1932年4月25日」を記念して名称されたもので、北朝鮮にとっては政治的にも重要な建物の一つだ。その建物の壁に金正恩委員長への批判が落書きされていたわけだ。北朝鮮当局の衝撃は大きい。

マレーシアのクアラルンプールにある北朝鮮大使館の壁にも今月11日、「金正恩打倒」、「我々は立ち上がる」といったハングルで書かれた落書きが見つかっている。この場合、「自由朝鮮」関係者の仕業だ。金正男氏暗殺事件の実行犯の2人の女性の1人、インドネシアの女性シティ・アイシャさんが釈放された直後だ。

ところで、海外反体制派グループ「自由朝鮮」の指導者は誰だろうか。メンバーの数は不明だが、活動資金を有していることは間違いない。駐イタリア北朝鮮大使館のチョ・ソンギル大使代理が昨年11月から行方不明となり、亡命説が流れた時、2016年7月に家族と共に韓国に亡命した前駐英公使の太永浩氏は今年1月5日、自身のブログで、第3国への政治亡命を求めているといわれるチョ大使代理に対し、「民族の一構成員であり北朝鮮外交官だった私や君にとって韓国に来るのは選択ではなく、義務だ。ソウルで待つ」(韓国中央日報日本語版)と呼び掛けている。韓国ばかりか、米国や英国にも多くの脱北者がいる。その彼らが秘かに連絡を取り合っていたとしても不思議ではないだろう。

「自由朝鮮」は、金正男氏が2017年2月、マレーシアのクアラルンプール国際空港で劇薬が染み込まされた布を被され暗殺された直後から、「金正男氏の家族、息子金ハンソル氏の安全を守ってきた」と述べてきた。「自由朝鮮」と殺された金正男氏の一族の間に何らかのつながりを感じる。

ここで金ハンソル君のプロフィールを簡単に紹介する。同君の名前がメディアで初めて報道されたのは16歳の時だった。ハンソル君は2011年9月、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部モスタルのインターナショナル・スクールに留学した。正男氏の家族がまだ安全に自由に移動できた時代だ。

ハンソル君はモスタルの学校を卒業後、13年にパリ政治学院に入学、そこを卒業後、2016年9月からオックスフォード大学大学院に入学する予定だったが、ハンソル君は中国治安関係者から「暗殺の危険があるためマカオに留まるように」と説得されたという。そのため、オックスフォード大学大学院への進学を断念した経緯がある。そして17年2月、父親が暗殺された。

ハンソル君は現在、23歳だ。自分が置かれている立場、なぜ父親が暗殺されたかを理解しているはずだ。当方はこのコラム欄で「金ハンソル君は北のハムレット?」(2017年2月22日参考)というタイトルの記事を書いた。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ハムレット」は有名だ。「父親を殺されたデンマークの王子ハムレットは父親殺しが現国王クローディアスだと教えられ、報復する話だ。ハンソル君は父親の遺体に対面し、父親の前で報復を誓うかもしれない。聡明で若いハンソル君は北のハムレットとなって立ち上がるかもしれない」と書いた。

金正恩氏は叔父・張成沢氏を処刑し、異母兄・金正男氏を暗殺した。正恩氏の権力基盤は強固となったと受け取られてきたが、金正恩氏はいま、反体制派「自由朝鮮」の挑戦を受けているのだ。金ハンソル君にとって叔父・金正恩氏は父親殺しのクローディアスだ。「朝鮮半島のハムレット」はいよいよクライマックスに向かって動き出してきた。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年3月20日の記事に一部加筆。