タブーとしての「国家の名誉」
中世の人々は「名誉」を非常に大事にした。「名誉」を巡って戦争が起きたこともあり「合理性」が当然視されている現代人にとって中世人の名誉への意識と姿勢はなかなか理解できない。
現代は「名より実をとる」という姿勢が「賢い」と判断される風潮があり「名誉」に拘る人間は何か頑固な印象を持たれてしまう。
もちろん「名誉」と一口に言っても個人と組織とではその評価は異なるし有名人や企業が週刊誌などによる虚偽報道で「名誉」を傷つけられたとして民事訴訟を起こしたことがしばしばニュースにもなるから現代人は「名誉」に全く無頓着というわけではない。
しかし「名誉」について積極的に議論されている印象もない。
さて、戦後日本でタブーとされた「名誉」がある。それは「国家の名誉」である。
おそらく「国家の名誉」と聞いただけで嫌悪感を持つ者も少なくないだろう。
戦後日本で「国家の名誉」がタブーとなった最大の原因は間違いなくアジア・太平洋戦争での敗戦である。
大日本帝国軍は「精神主義」を採用したことはよく知られている。「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な「戦陣訓」は「命令」ではなかったけれど戦場で絶大な威力を発揮し「玉砕」の悲劇を招いたと言われている。
名誉とは精神の領域であり大日本帝国軍の「精神主義」の悲劇を教わった戦後日本では「国家の名誉」はとても「市民権」を得られなかった。
「名誉の強調は悲劇を招く」というのが「戦争の教訓」であったのは間違いない。
しかし悲劇を招いたのは名誉を「強調」することであって名誉自体を否定することではない。
「国家の名誉」自体を否定することが本当に我々国民の利益になるのか検証する必要がある。
国家の否定は有害である
国民は生まれる国家を選べない。我々日本人は両親が共に外国籍でない限り日本で生まれれば自動的に「日本国民」となり各種行政サービスを受けながら成長する。
日本人である以上18歳になれば選挙権が行使でき就職すれば納税の義務も負う。日本国憲法では国籍の離脱と外国への移住が認められており日本国の施策に不満があれば日本国籍から離脱し外国に移住することも出来るがそういう日本人は少数派だろう。
かつて日本は南米に多数の移民を送り出したがこれは人口過多の時代の話であり現在のような人口減少の時代に同様のことが起きるとは考えにくく現に起きる気配もない。
「外国」と一口に言っても国よっては徴兵制もあるし日本より行政サービスが優れているとも限らない。
日本の歴史を見ても海外移住の文化はなく将来、海外移住の文化が主流になるとも思えない。海外移住どころか「外国人労働者」という名の事実上の移民を受け入れようとしているぐらいである。
生まれる国を選択出来ず自動的に「日本人」になってしまった我々に海外移住の文化がないなら「日本人」たる我々が自らの利益を守り、また、向上させるためには「日本」という国家を改良していく他ない。
敗戦の反動により戦後日本では国家を否定することが知的であるという風潮が強いが、国際社会を見ても国家の生成に失敗した地域は深刻な混乱、貧困を招いている。
「国家による人権侵害」を恐れて国家を否定すればより深刻な人権侵害を招くだけだろう。
個人の自由・人権・平和を守るためにも国家は必要であり国家を否定することは極めて有害である。
「名誉」は平和の第一関門
「平和への侵害」というと物理的攻撃がもっとも想像されやすい。大体の人が想像するのは外国の軍隊による日本への攻撃だろう。
外国が日本を攻撃するにあたって考慮するのはやはり日本の軍事力だろう。具体的には「戦闘機が何機」とか「戦車が何台」といったやつである。
常識的に考えれば自国より軍事力が高い国は攻撃しない。しかし例え軍事力が高くてもそれを行使しない、そこまでではなくても行使の意思が弱く攻撃側が対処可能程度の行使ならば攻撃は選択肢になる。抵抗の能力と意思は車の両輪である。
日本では抵抗の能力(自衛隊など)ばかりが注目されるが、その意思への注目は低い。
これはおそらく敗戦の反動により抵抗の意思を持つと直ちに能力の行使に発展するという考えが根強いからである。
もちろん抵抗の意思を持つからと言って必ずしも能力の行使には発展しないし単なる意思表示だけで終わる場合もある。意思表示は相手の選択に影響を与えるものであり、上手くすれば抵抗の意思表示だけ相手が攻撃を断念することも期待できる。
「抵抗の意思表示」で相手が攻撃を断念するならばそれはそれで結構なことでありむしろ望ましいことである。だから「抵抗の意思表示」はもっと検証されなくてはならない。
この「抵抗の意思表示」を論ずるにあたって「国家の名誉」という考えが重要となる。
日本では謙虚と卑屈が混同されるきらいがあり中国・韓国との歴史認識問題ではこれが顕著である。中韓両国がこの問題で増長する最大の理由は日本が安易に両国の要求を受け入れきたからであり、それは言い換えれば「抵抗の意思表示」に消極的だったからである。
現在、日本は韓国から「徴用工問題」の例を見てもわかるように日韓基本条約違反という形で「国家の名誉」を攻撃されているが、ここで韓国側の要求を受け入れてしまえば韓国は無限に増長するだけである。
中韓両国との歴史認識問題の混迷を見てもわかるように「名誉」とは自らを守る第一関門であり、ここが突破されてしまえば平和は危うくなるだけである。
およそ国家間の「衝突」とは、まず一方の「国家の名誉」が否定され「対立」が発生し、それが加速し「衝突」に至るのである。
だから平和の第一関門たる「国家の名誉」を守ることで「対立」が回避され同時に「衝突」も回避されるのである。
「国家の名誉」を守ることは平和を守ることに通ずるものである。「国家の名誉」は平和とは無関係ではない。
だから「国家の名誉」を否定することは慎まなくてはならない。
戦後日本ではあまりにも「国家の名誉」を否定し過ぎた。それはやむを得ない面もあったがあまりにも否定し過ぎた。それが現在の中韓両国との関係悪化を招いたのは間違いない。
平成の時代で「国家の名誉」が傷つけられた最大(最悪)の事例としてはやはり朝日新聞による従軍慰安婦問題の誤報だろう。朝日新聞の誤報により日本の平和が脅かされたと言っても過言ではない。
「日本の名誉」について議論しよう
「国家の名誉」を守ることは平和に通ずるものだから我々日本人は平和を守るためにも「国家の名誉」もっと言えば「日本の名誉」について論じなくてはならない。
最近でも韓国の国会議長が従軍慰安婦問題を巡って安倍首相と今上天皇に謝罪を求め物議を醸した。
韓国国会議長、首相か天皇陛下が「ひと言謝罪すれば問題が解決されるとの趣旨だった」(毎日新聞)
安倍首相は戦後生まれだし今上天皇も大日本帝国の意思決定に参加したわけではない。完全な侮辱である。
特に天皇は日本国憲法で「日本国民統合の象徴」と規定されている存在である。
さて「日本国民統合の象徴」たる天皇を侮辱することは「日本の名誉」を攻撃することにならないか。もっと言えば天皇への侮辱を許せば、それは最終的に我々日本人への攻撃に至るのではないか。外国から「天皇の名誉」を守ることは日本の平和に資するものではないか。今必要なのはこうした議論である。
このように日本の平和を守るためにも「日本の名誉」について議論を深めるべきだろう。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員