3月26日のAFP=時事は「旧日本軍兵士を“英雄”とたたえ怒り招く、マレーシアで慰霊碑の撤去要求」との見出しで、マレーシア当局が修復した旧日本軍兵士の石碑を撤去するよう日本領事館に要求があったことを報道した。
要求したのはマレーシア華人協会で、石碑の周辺には「日本兵は英雄ではない」「地元住民を殺害した」などと書かれた横断幕が掲げられたという。石碑は橋の確保に当たって戦死した日本兵3人を称えて日本が建立したもので、看板には「アロースター橋を制した日本人の英雄3人の歴史」と記されていた。
アロースター市の観光委員会議長は看板こそ撤去したものの、慰霊碑自体の解体要求には応じず、「石碑は1941年以来ずっとそこにあるものだ。さらに我々はクダ州により多くの観光客誘致を目指しており、史跡の維持管理の取り組みの一環だ」と説明したという。
偶さか筆者は3月24日の本欄に「知られざる日台の絆:高雄は残った『台湾の日本人慰霊塔』」と題した投稿をし、望外にも短期間に四百余りの「いいね!」を頂戴したこともあり、このマレーシアの出来事の報道を感慨深く読んだ。
いったいどんな事件にも被害者と加害者がいるし、まして戦争ともなればそこで命を落とした方々の遺族の悲しみや無念は想像して余りある。しかし戦争は国と国とのこと、銃後の守りをしていただけの住民にはとんだ側杖だが、兵隊にしたって与えられた職務を国のために全うしていただけだ。
つまり兵士も住民も共に戦争の犠牲者だった。であるから州が「石碑は1941年以来ずっとそこにあるものだ」として残したのは実に良かった。勇気も要ったことだろうに。Google Mapでアロースター市の航空写真を見るとなるほど川の流れる美しい街。日本兵が守ったのはどれかの橋なのだろう。この際、現地の犠牲者も一緒に慰霊するモニュメントに衣替えできるならなお好ましいのだが。
そこで、「高雄日本人慰霊塔」の投稿に書き切れなかったことがあるのでそれを書きたい。一つは日本人慰霊塔と一緒に二つの墓(大坪與一という日本人のものと黄慶雲という台湾人のもの)も残ることになった話、もう一つは大坪與一の墓の発見譚、そして現地の若者グループのことだ。
高雄市は慰霊塔残置要望にさぞ苦慮したと思う。台湾人のセンチメントからも公園に墓を残すなどあり得ない。そこで何とか文化財や記念碑として残すことを考えたのだろう。これなら市民の理解も得られる。そこで慰霊塔に墓を提供した杉本音吉について調べ、その過程で出て来たのが大坪與一と黄慶雲だったと筆者は想像する。
杉本音吉(1873年-1928年)は早くも台湾領有の年(1895年)に渡台し、基隆から台南そして高雄と沖仲士の元締めをしながら立身出世して高雄に貢献した任侠の人物。没後に従二位に叙され市内を見下ろす寿山の中腹に慰霊塔(日本人慰霊塔に提供した墓とは別物)まで建てられた傑物だ。
慰霊塔は疾うに撤去され今は東屋があるらしい。雑草に覆われた階段が往時を偲ばせるが、数年前に筆者が見に行った時は階段脇の草むらに野犬がたむろし、残念ながら現況を確かめることが出来なかった。
大坪與一(1865年-1932年)も下関条約締結の年の渡台組だ。音吉より8歳年長だが高雄での要職は音吉の後継が多い。が、事業の手広さでは全島規模の與一が勝る。音吉の台湾運輸に対して與一の方は日東商船組。海上輸送により重きを置き、製氷業、劇場、乗合自動車会社なども興した。
二人を高雄に引き寄せたのは当時台湾南部で勃興し始めた新式製糖だ。児玉総督と後藤民政長官のコンビは農学者の新渡戸稲造を招聘し、新式製糖会社に助成して誘致した。が、築港前の高雄港は浅く大型船が入れない。そこで音吉や與一が艀を使い波高い港外から、それこそ命懸けで工場資材や設備を荷揚げしたのだった。
二人に共通するのは任侠だ。任侠というと今日ではヤクザを想起する。が、往時のそれは「弱きを扶け強きを挫く」まさに公正無私の正義の味方、二人とも実に面倒見が良かった。両名の伝記にはそれを物語る逸話が横溢する。共に消防組合長や高雄魚市場長、高雄州議員などの公職も歴任した。
黄慶雲(?-1938年)も日本統治期に活躍し高雄五虎と称された台湾人実業家で、漢方薬の輸入販売や信用組合を業としていたようだ。仏教養護院を建てたり貧しい者に無償で薬を提供したりするなど、音吉や與一と一脈通じる篤志家だったらしい。墓も劣らず立派だ。
そこで大坪與一の墓探しの話になる。2013年の夏に高雄日本人会に一通のメールが北九州のある方から舞い込んだ。戦前の高雄で事業をしていた大坪與一という名の曾祖父の墓が高雄の前峯尾にあるらしいので探して欲しいと、建立当時の写真も付いている。
筆者は新幹線左営駅に程近い前峯尾一帯を探した。が、それらしいものは見つからない。その旨を連絡すると折り返しメールが来た。日本人慰霊塔のある墓地に與一の墓があると現地のサイトに載っている、とアドレスが記されている。アクセスすると実に立派な墓の写真と覆鼎金公墓の回教徒墓地の隣にあることが書いてあるではないか。
日本人慰霊塔には何度も行ったし、回教徒墓地も知っている。が、こんな大きな墓が隣にあったかなあ、と訝りつつ公墓へ。回教徒墓地の階段を上りひょっと右横を見ると、あったー! 萬姓祠(無縁仏の祠)が前を塞ぎ左右を大木が覆っていてまるで周囲から隠されているかのよう。公墓入り口の目立つ場所だがこれでは気付かない。
與一の伝記を読むと墓石は7.5トン、台石は12トンもある。台石には昭和15年に左営軍港の拡張のため前峯尾から覆鼎金公墓に移されたと記されていた。きれいに墓守され線香があげられた跡もあった。
曾孫さんはその後いく度か渡台し、誰か解らぬ墓守に連絡先を残した。程なく便りが届く。墓守は墓を建てた大江森蔵の子息で與一の日東商船組の社員だった。森蔵は音吉の記念碑も建てた大江組という土建屋で日本人だが、子には台湾女性の血が半分混じり日本語も片言だ。與一の恩義に報いるため台中から時々墓守に来ていたという。
筆者は曾孫さんから頂戴した伝記を読み、またこの墓守の話を伺って、高雄市に慰霊塔と一緒に残せないか掛け合った。結果的に市政府にとっても良い話だったのかも知れぬ。音吉と與一と慶雲の三基を残せばバランスが良い。いずれ劣らぬ高雄の貢献者だし人望もあった。立派な墓も記念碑に相応しい。
かくて三基は記念碑として残ることになった。高雄日本人会と交流協会高雄事務所のご尽力も大きかったのは勿論だし、この覆鼎金公墓図を作った高雄の古いものを残す若者グループ「地下高雄」の貢献も大きかった。
YouTubeに彼らがアップした「地下高雄」という動画もある。その中の一人は高野山真言宗台湾準提院の副住職、動画にも帽子の下に白手拭いの台湾スタイルで映っている。彼らの標語は「一墓碑一故事 教人莫忘飲水思源」だそうだ。心が洗われる。撤去された幾多のお墓に合掌。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。