トルコ「匈奴も先祖だ」としてウイグル問題に介入

トルコ国内では中国に対しウイグル問題への抗議が長年続く(画像のデモは2009年。flickr:編集部)

トルコ政府が中国政府のウイグル族への弾圧に厳しく抗議を繰り返している。広い意味での同じ系統の言語を話すイスラム教徒ではあるが、距離も離れているのになぜと思う人も多い。

ところが、駐日トルコ大使館文化広報参事官室のホームページに掲載されているトルコの歴史の要約をみると謎が解ける。なにしろ、匈奴もトルコ人で、それは、フン族になってヨーロッパで民族大移動を引き起こしたといっている。

私の子どもの頃の歴史本には匈奴はフン族と書いていたが、現在ではどの歴史本でも、そういう説は否定されているとにべもない。また、匈奴がトルコ族かモンゴル族かそれ以外かも分からないとされている。

しかし、トルコ人が匈奴も自分たちの民族だと考えているとか、トルコの建国は、552年の突厥の成立だと理解しているとかいうのは、重要だ。そういうことを知らないと歴史を学ぶ意味が無いのだが、歴史書の多くは真実を探求はしても人々の歴史観や歴史認識にはあまり興味なさそうだ。

そんなことを私のFacebookのタイムラインに書いたら思いのほか好評だったので前述のサイトの記事に、少し手を入れて提供しておきたい(直訳っぽいので用語は馴染みの深いものに少し入れ替えている)。

トルコ人は、ウラル・アルタイ語族のもとに集まった民族集団であり、紀元前7世紀にサヤン山脈の山麓において歴史の表舞台に登場した。アジアにおけるトルコ人の政治的集合体は、紀元前3世紀の匈奴(原典ではフン族)によって始まる。メテ・ハンの時代に巨大な帝国となった匈奴は、モンゴル族や柔然(これもモンゴル族といわれる)を打ち負かし、中国の西門と商業路を掌握した。

匈奴が崩壊した後、552年にアルタイ山脈の東麓において突厥が勃興する。突厥は「テュルク」という言葉をはじめて国家の名として使った。ビルゲ・カガンとキュル・テギンは、歴史上トルコ系指導者のなかでも最も知識豊富な勇者とされている。この2人のカガンと、突厥のカガンであるトニュククは、それぞれの業績を「オルホン碑文群」と呼ばれるトルコ人史上初の文字資料をもって永遠のものとした。

ウイグル人は、741年に、突厥以後第3番目のトルコ系国家を建国した。しかし、北西部に住むキルギス人(堅昆。現在のキルギス人ではなくハカス人)が、彼らの首都に対して行った攻撃によって崩壊した。
アラル湖とトルキスタン地方に住み、匈奴の末裔である西フン族は、ウアル人たちの圧迫により故郷 を追われ、ヴォルガ川の西に移動し(中略)、ローマ帝国の北方領土をかく乱しながらイベリア半島まで進み、「民族大移動」が始まった。

これについて私の『中国と世界が分かる 最強の中国史』(扶桑社新書)ではおおむね次のように解説している。

ここで紹介されているように、トルコ共和国では、552年の突厥帝国をもってトルコの建国ととらえており、1952年には建国1400年祭が祝われた。もっとも、帝国と言っても緩い部族連合で、鉄の資源と利用技術を持っていたことが強みだったようだ。それが、583年に隋の圧迫で東西に分裂し、東突厥は唐の建国に協力し、やはりトルコ系民族である鉄勒とともに唐に服属することになり、彼らは太宗に遊牧民全体の王者であることを意味する「天可汗」の称号を贈ったこと波すでに紹介した通りだ。

6世紀、突厥の最大版図(Wikipedia:編集部)

唐は彼らを独立国としてでなく、自治領のようなものとして扱う羈縻国とした。朝鮮半島でとったのと同じ政策である。また西突厥の支配するシルクロードのトルキスタン地方にも唐の勢力が及ぶようになり、657年にいまのキルギスあたりにいた西突厥は滅亡した。しかし、682年には、かつての東突厥は突厥第二帝国を再興した。上記の大使館の紹介にあるように、東突厥は独自の突厥文字を創り、「オルホン碑文群」を残している。文字になった初めてのテュルク系言語だ。

こののち、彼らの残党は漢民族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族などに吸収されていったが、そのうちの沙陀族は、山西省北部に定着して軍閥化し、あとで紹介する五代十国のうち後唐、後晋、後漢の皇帝を出した。

唐が建国されたとき、中東ではササン朝ペルシャが東ローマ帝国と覇を争い、唐とも盛んに通称を行っていた。正倉院御物にもその精華が伝えられている。

しかし、7世紀にアラビア半島からイスラム勢力が台頭し、651年に滅ぼされた。そして、アッバース朝イスラム帝国軍は、751年にタラス河畔(キルギス共和国)の戦いで、河西節度使高仙芝(高句麗出身)が率いる唐軍と戦い大勝を収めた。この戦いで捕虜となった唐兵によって製紙法がアラビア人に伝えられた。

ウイグル人は、8世紀に突厥に代わって建国され、安史の乱の時に唐を支援して有力となり、彼らの宗教であるマニ教は中国全土に広がった。ソグド商人を保護して東西交易で繁栄したが、840年にキルギスによって滅ぼされ、西方に移住して現在のトルキスタン(中央アジアの旧ソ連諸国と中国の新疆ウイグル自治区の総称)成立のきっかけとなった。トルコ共和国の人々は、そこからまた、西へ進出していった人たちだ。

このあと、セルジューク・トルコとかオスマン・トルコがどうして現在のトルコ領土の中心であるアナトリアに進出して発展し、さらに、現在のトルコ共和国に発展したかはまた別の機会に書きたいが、エルドゥアン大統領の意識は、一方でオスマン帝国のスルタンが兼ねていたイスラムの盟主としての復権をめざすとともに、欲張りにトルコ民族の偉大な歴史の継承者でもあろうとしている。

2015年には、パレスティナ自治政府のアッバース議長を迎えるのに、儀仗兵として、2000年にわたるチュルクの諸王朝を象徴する16種類の甲冑に身を包んだ兵士たちを登場させて話題になった。

大統領のお気に入り?甲冑姿の儀仗兵が物議かもす トルコ(AFP)

匈奴・西匈奴・フン帝国・エフタル・突厥・アヴァール・ハザール・ウイグル・カラハン朝・ガズナ朝・セルジューク朝・ホラズムシャー朝・ジョチウルス朝・ティムール朝・ムガール帝国・オスマン帝国である。なかには、トルコ化されたとはいえチンギスハンの子孫まで混じっているが、エルドゥアンは本気なのだから笑っておれない。