あす(4月20日)発売(大手書店は本日から)の『令和日本史記』(ワニブックス)は神武天皇から新陛下までの126代の天皇についての項目のタイトルを寸評のかたちで工夫して掲載しているが、近代の天皇については以下のように綴った。読者の皆さんにとっての歴代の陛下はどういうイメージか改元を機会に考えていただいてはどうだろうか。
明治天皇:近代国家樹立に不可欠だった究極の調停者
大正天皇:開かれた皇室への道を拓かれた人間性
昭和天皇:言葉の重さで国体を護られた帝王学の体現者
平成の明仁陛下:伝統的な儀式や祈りの重視とリベラルな姿勢
令和の徳仁陛下:留学経験で得られた国際性と家族への深い愛情
近代史を語るにあってそれぞれの時代の天皇陛下について客観的に論じることが必要なはずだ。しかし、片方にあたかも完全無欠の存在であるがごとく大事にしたいという立場があり、反対にまったくの操り人形でしかなかったとか、逆に戦争など不都合な出来事に積極的に関与されたことがなお隠されているのではないかと悪く言うことにしか情熱を傾けない向きもあってそのふたつの立場は議論を交わすこともない。
だが、当たり前のことながら、天皇陛下といえども完全無欠で常にひとつだけしかない至高の判断をされていたはずもない。生身の人間としての成長も退化もある。これから即位される皇太子殿下も含めて五代の陛下それぞれの個性も顕著でおられる。
また、天皇陛下がたった一人で考え判断されるわけではないから、周囲の人々の影響もあれば、制約もある。
保守派の人には、客観的に語ることを避けたい方も多いだろうが、それではすまないのは、たとえば、外国人と歴史について議論するときは、皇室の問題はタブーだということですませてもらえない。
そのときに、たとえば、昭和天皇には戦争について責任はないし、ほかに選択はなかったということで日本国内では一部の左翼的な人を除いては通用するかもしれないが、外国人と議論するときにそれでは済まず、日本人は沈黙して実質的に負けてしまう。
また、若い人は皇室の問題について、極端に崇敬もしていない。逆に屈折した感情ももっていないから、これもある程度、客観的な議論をしないと納得してもらえない。そういう意味で、やはり、最大限の敬意をもちつつも客観的な歴史認識が必要だし、そのために、いかなる功罪があったかも語るべきだと思う。
もちろん、それはそれを支える周囲にも左右されることだ。たとえば、厳しい攘夷を主張されながら幕府に頼られた孝明天皇の迷走は幕末の政局を大混乱させたが、そうなってしまったのは、頼りにできる側近がいない、あるいは、その中核であるべき岩倉具視が追放されたからだ。
一方、明治天皇が大帝といえるのは、もちろん、天皇の素晴らしい資質もあるが、伊藤博文に代表される「決してイエスマンではないが、天皇をよく理解する」臣下が多くいたからでもある。
大正天皇の率直な言動は皇太子時代に巡幸された日本各地にいろんな痕跡を残しているし、貞明皇后の皇室を護るための奮闘はこれからの皇室のありかたを考える上でもっと議論されるべきことだ。
昭和天皇について、吉田茂は戦後の陛下を絶賛する一方で戦前戦中については、一定の留保を込めた言葉を残している。
今上陛下については、議論が昭和天皇以上に控えられているが、未来の歴史家はどう論じるであろうか。
そして、新しい陛下は、妃殿下をめぐる話題に隠れてしまっているが、今上陛下とは違った君主像をお持ちのように見受けられ、年齢的にも満を持しての即位だけにかなり独自性を発揮されていくと思うし、そうあるべきだと思う。