民主主義の学校にはなれない地方自治の今 ~ 平成の宿題

某市役所(筆者撮影)

日本では統一地方選挙が終わった。

投票率の低さ、女性議員の割合の低さ、関心の低さ…。
そして、音喜多駿氏でさえ、北区長選挙に敗れる…日本の問題の根深さに愕然となった。相変わらず、平成、いや昭和の風景と変わらない。

そもそも「人口減少」「高齢化」が課題という課題設定が間違っている。

1人当たりGDPが低いのに、
最低賃金が低くて普通に生活できないのに、
幸福度が世界的にも低いのに、
権威主義的な価値観が支配するのに、

そんな現実をみようともしない。何十年同じ議論を続けているのだろうか。

人口減少や高齢化はそもそも国レベルのテーマであり、社会システムの問題である。自治体の努力でどうにでもなるものではない。「地域の課題を考えるべき」とメディアのコメンテーターは言うが、「問題」と「課題」の混同をしているし、地域の「課題」はあるべき姿があってのことに気づくはずもない。(専門家以外の)知識人ですら深く考えれない。この国もそのレベルであるということだ。

低い投票率の理由

なぜ低い投票率なのか。

第一に、多くの人が地方政治の実態を知らないし、そもそも政治参画の意味がわからない。そうした学びの機会もない。筆者でさえ10年以上この仕事をしていて、まだわからないことがあるくらい、複雑(それだけ地方自治体職員が頑張っているともいえる)。自分の人生や生活への影響がイメージできないければ、よくわからなければ関心すら持てない。

第二に、住民にとって、政策や論点の違いがわからない。争点が明確ではないから、国政レベルの争点が行きかう。抽象的な話が並ぶ、あいまい言葉の羅列、総花的….。

・首長の政策をどう評価するのか?
・まちの未来の方向性は?
・どう予算の優先順位をつけるのか?再配分をするのか?
・(自分の担当領域において)まちづくりの指標と目標値は適切か?可能か?
・将来を見越した投資はどういった事業化はしているのか?
などなど。それが「可視化」されていないどころか言及もされていない。

第三に、地方自治の限界を皆知っていること。国政に影響されるし、地方自治体の多くが中央からの地方交付税で多くの税収が賄われていることを知っている。裁量の余地もないと思える。

第四に、住民が、議員出してまで得られる利害・利益が減ったことだろう。議員にお願いしても大したことはできない。甘い汁は相当減った。別にそれが悪いとかいいとかいうわけでもなく、人間が政治に参加するインセンティブとしては普通のことだ。

しかし、政治「関係者」が熱心になればなる一方、「この候補者をお願い」と言われる側はあほらしくて関わりたくもなくなるし、そのあからさまな「自分だけ主義」に醒めてしまう。それが大半の人であるということだ。

日本の地方議員の数とその報酬は、世界一多く高いわけで、「職業議員」は本当に必要なのか?

以下の写真をみていただきたい。議員立候補者の多いこと多いこと。

たくさんの立候補者(筆者撮影)

各地で議員の「なり手が不足している」というニュースも聞く。そもそも職業議員は必要なのか?という疑問がある。頑張っていらっしゃる議員もいるので、何とも言えない部分もあるが、考えてみよう。

人口約350万人のロサンゼルス市の議員は15人、72万人のサンフランシスコ市は11人と比較すると日本の議員の多さに愕然とする(さすがにNY市は50人以上いるが)。さらに、議員報酬が低いこと、活動は夜間に行われること、市民の参画などなど、日本の地方自治は圧倒的に「遅れて」いる。

住民や国民が議員に厳しく要求するというレベルでは解決しない、根本的なシステムの設計のような「治療」が必要なのは明らかである。

・権威的な儀式や「偉い人」感を醸し出す雰囲気
・多様な市民の気軽な形での参画
・本質的な対話や意見交換でイノベーティブな対話になっていない議論の方法
・指標や数字・データを基にした現状の分析
・職員の負荷軽減(前例踏襲の計画・資料作成・議会運営)

を少しでも改善に取り組めるのか。令和の時代に試されている。