最高を極める努力

天台宗の僧侶・堀澤祖門さん曰く、『70年近く行を続けてきたわけだけど、行そのものには終わりはない。ただね、終わりはないけれども、いつまでも「まだまだ」じゃダメ。不安感で覆われてしまうからね。それを断ち切るにはどこかで「よし」という気持ちを持たないといけない』とのことです。

堀澤さんは更に続けられて、『「よし」ということは終わりじゃなくて、自分で納得してまた新たに進んでいくということ。進行形と、ゴールに既に着いているということは同時なの。でも、自分で「よし」と手応えを感じるまでには50~60年かかったな』と言われています。

例えば画家は、「絵を何時何時までに完成して下さい」という注文を受けたら、一回ぐらいは延ばすかもしれませんが、そう度々その期限を延ばすわけには行きません。それゆえ自ずと、その期限内に今自分が出来るベストなところに挑戦するのです。但し、それが完全に自分も満足できるような点かと言うと、必ずしもそうではないかもしれません。

そういうふうに世の事柄には何処かで句切りがあるものです。そして句切りを設けない場合ダラダラになってしまうのは、人間である以上仕方がない部分もあろうかと思います。ですから一旦句切った方が、その間を必死になって集中してやり抜いて、良い結果に繋げることが出来たりもするでしょう。

一たび終わりを決めることで、一つ一つの過程夫々で最高を極める努力をして行くのです。何時まで経っても「いやいや、まだまだ、いや、まだだ」といったようでは、一生が終わりになってしまいます。やはり「人間終わりがある」という覚悟の中で生きて行くことが、今持てる全てを出し切った形での最高傑作に繋がって行くのだろうと思います。

松尾芭蕉が臨終の床にあって、「きのうの発句は今日の辞世、きょうの発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句々、一句として辞世ならざるはなし」(『花屋日記』)と弟子達に言っているのは、芭蕉が死を覚悟して日々真剣に生き切ったということをよく表しています。

人間いつ死ぬか分からない。だから芭蕉は、今日創った句が辞世の句になっても良いという覚悟で以て俳句に向き合っていたのです。そんな芭蕉の本当に最後となった辞世の句、それは「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」というものでした。我々も自分の生を生き切るべく、こうした先人の生き方に学び、時間を惜しんで、日々研鑽し努力し続けねばならないと思います。

一日は一生の縮図であり、一瞬一瞬の積み重ねが一日になり、一日の積み重ねが一ヶ月、一年、一生となります。そう考えれば、有限な時間を一瞬たりとも無駄には出来ません。一つのピリオドを迎える迄、その時その時を死ぬ気になって一生懸命やり抜くのです。そして次のステージではその経験が肥やしとなり、一段高いレベルに自分が到達していることでしょう。人生そうやって時時、最高を極める努力を積み重ねて行くということです。

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