安倍総理の滑舌を笑う人

田村 和広

安倍晋三首相の「読み間違い」が話題になっている。この現象にはいくつかの重要なテーマが内在されている。今回は本件を題材として、人格攻撃について論考する。まずは事の顛末を整理する。

首相官邸YouTubeより:編集部

起:「やみません」の読み上げ

安倍総理は、4月30日に「退位礼正殿の儀」で述べた「国民代表の辞」の中で「天皇皇后両陛下には、末永くお健やかであらせられますことを願ってやみません」という一文を読み上げた。ところが、文末の「願ってやみません」の部分が、何度聞いてみても「願ってません」に聞こえるのだ。しかし、この動画が配信された当初、誤読についてはテレビも新聞も殆ど報じなかった。気が付かなかったか、殊更に非難することで品位が下がることを認識していて看過したかのどちらだろう。

承:あるジャーナリストが動画サイトで問題提起

ところがその4日後の5月3日になって、あるジャーナリストが「不敬の極み。あきれた失言だ」と動画サイトで問題視した。これを発端として(:推測)、インターネット上で言い間違いへの非難が広がった。

転:当初「漢字が読めなかった」と憶測

当初、「『已みません(やみません)』という漢字が読めなかったのではないか?」というメディアの推測報道が出た。しかしこれについては5月24日、首相官邸公式ツイッターは「漢字誤読説」を否定する発表を行った。“当該部分は、「…願って『や』みません」とひらがなです。これらの報道にある漢字の読み間違いなどは、ありません。”と公表されたのだ。

結:「ひらがなも読めないのか」と揶揄

すると、今度は「ひらがなさえも読めないのか」という揶揄が広がる。

まだ読み間違いか、滑舌の問題かも判然としない状況である。読み間違いと断定し、ましてや「読めない」とまでおとしめて扱うことは控えるのが良識であろう。今では「子供でも読めるひらがなさえ読めないとは(あきれる)」という趣旨のストローマン化と嘲笑がSNS上で展開されている。

推測される直接的原因

今回の「誤読」理由は、「ひらがなが読めない」からではない。考えられる原因は2つである。一つは、ヒューマンエラーとしての「スリップ」が起きたこと。もう一つは、滑舌が悪かったこと。つまり、1拍1拍が不明瞭で聞き分けられないか、テンポに遅速が発生しているかということである。今回は、滑舌の問題だと筆者は推測する。「や行あ段の『や』とま行い段の『み』が早口のために、2文字が合体してや行『や(い)ゆ(え)よ』の『い』1文字に化けて聞こえる」というのが真相に近いと思われる。

なぜならば、従来から安倍総理の演説原稿朗読には、2文字を1文字に圧縮してしまう早口になる傾向があるからだ。しかも、直前にたどたどしい読みと読み直しが起きており、明らかに文脈や文の趣旨がとれていない状況が伺われる。ここで焦りや照れなどの心理的変化が起きてしまい、その後の読み上げに負の影響があったと考えることは自然であろう。

誘発した背景

「已む」の否定形「已まない」は、「しないわけにはいかない」、「せざるを得ない」という二重否定の定型句として今に伝わる日本語だが、日常語として使用頻度が低い。これに敬語化とひらがな化という難易度の高い言葉の使用方法が重なり「困難の三乗」になっている。意思伝達の方法としては、この語法は避けるべきだった。(日本語の文章は、通常漢字かな混じりで記述される。そのおかげで単語やフレーズを塊で扱うことができて内容を取りやすいのである。過度のひらがな化はかえって読み間違いを誘発することに注意が必要である。)

次に、今回の具体的事例から見えてくる、日本の言論空間における課題に論点を移したい。

論点1:明らかな言い間違いや滑舌の悪さを非難すること

文脈上または状況から判断すれば、今回問題視されている部分は言い間違いか、滑舌が悪いことが原因であり、取り立てて問題視するまでもない内容だ。

加齢や疲労の影響でろれつがまわらなかったり、滑舌が良くなかったりする人を「無礼だ」と非難することは、言論で生きる人がとるべき論とは思えない。総理大臣も人である。言い間違いや聞き取りにくい滑舌問題を起こすことは一定程度許容されるべきであろう。

論点2:本当に問題か

これが、外国の元首らに向けた、国を代表しての言辞であれば重大な問題となることもあろう。しかし今回は完全に国内の儀礼である。当時の両陛下の内心は伺い知るべくもないが、公式に何ら問題視せずに数日経過していることから、実務上も礼節上も問題は見当たらなかったと考えられる。

論点3:わざわざ問題化する本当の理由(推測)

今回は、数日後にわざわざ動画で指摘し、世論を喚起すべくリマインドした人物がいる。そしてそれに呼応する形で現政権を良く思わない人々が反応した。いちいち証拠は挙げないが、一部メディアは普段皇室や天皇陛下に対して数々の非礼を働いている。また、安倍総理を揶揄する一部のSNS利用者も、「嫌い、嫌い」と言いながら細かい部分までしっかりチェックしている。(自らに不都合なベストセラーを数百頁にもなるのに全頁確認してミスを探す集団と共通する何かがある。)

結局、不敬に憤っているというよりは、総理を非難する材料として都合よく使っている、というのが本当の理由に見える。ただし、他人の心情は私には解らないのであくまでもそう感じるというだけである。

論点4:官邸スピーチライターも一層の研究が必要

安倍総理の話し言葉は非常に個性的であり、時に過度の早口になることや聞き取りにくいフレーズも少なくない。演説原稿には、明らかにこの点についての配慮が不足している。さらに言えば、「書生っぽい」と感じる「〇〇しようでは、ありませんか」などの呼びかけが多用され、紋切型が過ぎる。官邸スタッフも、安倍総理の言葉使いと滑舌の特徴を今一度分析して、本人が使いにくい二重否定等の定型句を殊更に多用したりすることは控えた方がよい。

結論:「人を呪わば穴二つ」は現代でも有効な格言

「普段敬っていないから思わずそう言ってしまったのだ」、「心の声が出た」などと他人である総理の心情を推測して断定的に論じている人さえ出現している。そういう方々には、もう本件を題材として安倍総理を嘲笑するのは御止めになることをお勧めする。安倍総理を揶揄するつもりだろうが発言者の品位を自らおとしめているからだ。滑舌が良くない人やヒューマンエラーをする人を無益に嘲笑う状態にさえ陥っており、自らの言説の説得力を自ら低下させていることに気が付いたほうが良いだろう。

日本人同士の議論において、控えめに言うと内容を論ずるのではなく相手の人格を攻撃する論争が頻発している。印象で言ってしまえば、相当高名な論客同士でもほとんどの論争はなぜかそこに陥ってしまう。

自戒も含めて理由を考察すると、日本人の特徴として、

1:議論において「勝ち負け」を過剰に感じてしまうこと

2:説得を受け入れる人を「変節漢」として蔑むこと

3:主張に言論人生命をかけ、間違えたならば「筆を折る」という覚悟を持っていること

これらが文化的な背景だと推測される。

民主主義の重要な道具である議論の文化を成熟させるためには、「過ちて改めざるこれを過ちという」(論語)という教えも大切に育てることが課題だろう。

何等かの志を持って議論をするならば、相手の人格を非難することは避けるべきであろう。

田村 和広 算数数学の個別指導塾「アルファ算数教室」主宰
1968年生まれ。1992年東京大学卒。証券会社勤務の後、上場企業広報部長、CFOを経て独立。