私の人生を決めた東京電力 勝俣元会長の言葉

酒井 直樹

私は、かつて東京電力の社員であった。

この記事を書くに当たり、福島第一原子力発電所事故の被害を受けた福島をはじめとする全国の皆様に、東京電力OBとして深く謝罪させて頂く。2011年3月11日の事故以来、贖罪の念は一日たりとも忘れたことはなく、再生可能エネルギー100%の新しい電力システムの実現に残りの人生を投じることが、せめてもの償いだと思っている。事故がもたらした影響は筆舌に尽くせぬほど甚大で、どのような非難も甘んじて受ける所存だ。

東電本社(同社サイトより:編集部)

私は東京電力に入社して3年余りの現場経験を経て、1990年に本店人事部に配属された。社員42,000人の地域や部門別の配置計画や、新卒の採用・配属計画、各ポジションのレベル、管理職の給与・処遇制度の改編など、若輩者にしては経営の根幹に関わる仕事をさせていただいたのは今でも感謝している。1990年から暫くはバブル期の人材確保に躍起になった。当時はまだエクセルもなく、富士通のワープロで計算をしたり、メインフレームコンピュータでプログラムと夜中まで格闘していた。

1998年の長銀破綻の頃は人件費の削減策の立案に頭を悩ませた。給料や処遇は、上げるより下げる方がはるかに難しい。しかし、仕事は頗る順調で、やりがいもあり、昇進もさせていただき管理職となり、上司や同僚、職場環境には何の不満もなかった。ただ、一方で巨大とはいえ関東ローカルの会社組織のバックオフィスで人生を終えるのではなく、個人としての実力を試してみたいという思いを強く抱くようになった。大学で国際金融を専攻したことも影響したのだろう。

そんな折、2000年、37歳の春に、導入されたばかりの人材公募制度で、国際部がアジア開発銀行(ADB)のフィリピン・マニラにある本部への派遣を募集しているのを偶然イントラネットで見つけた。仕事は、途上国での電力プロジェクト・ファイナンスの組成・実行という触書きだった。

私にとっては全く未知の領域であったが、即座に決断し応募した。東京電力というのは本当に生真面目な会社で、「上司の許可を得る必要なく、異動が決まった時点で通知すればいい」という原則がその管理をする人事部内においても厳格に守られたので、上司や人事部長には一切相談しなかった。義理を欠いたことは申し訳なく思った。いくつかの面接や社内での選考プロセスがあり、幸運にも合格通知を得た。

マニラのADB本部(ADB公式flickrより:編集部)

ところが、合格した後、私にとっては想定外の事実を知らされた。一つは、ポジションは1つきりだが社内で同時に複数名が合格していること、もう一つは、ADBにとってはあくまでも正規職員の採用であり、東電内で合格しても、ADBのマニラ本部での面接試験で全員が落ちることもあるということだった。つまり合格通知とは、あくまでも東電の社員の身分を確保し、ADBに応募する権利を得たというわけだ。

まずADB東京事務所の一次面接で挑戦者が1人に絞られ、マニラ本部で人事局の面接に進む権利が与えられた。運良く東京事務所(当時は東京電力本店から徒歩3分の旧大和生命ビルにあった)の面接には合格したが、次は3週間後、マニラでのオーストラリア人の人事課長の面接だと通告された。もし落ちたら、大恥をかく。無論離反者としてキャリアに影響は必至だ。マニラへの片道切符の一大チャレンジだった。

それから、ADBのこと、豪州人のプロフィール、アジア途上国各国の電力セクターのこと、プロジェクトファイナンスのことを徹底的に調べた。有給休暇を取って(人事部には内緒だった)、単身マニラにのり込み面接に臨んだ。面接は、豪州人の人事課長と各地域2人の電力局長(インドネシア人とイギリス人だった)で、それぞれの執務室を訪ね歩いた。

「出来レースで多少なりとも下駄を履かせてくれるのではないか」という淡い期待はすぐに打ち砕かれた。私は各国の電力セクターに如何に精通しているかを両電力局長にアピールしたものの、「君は途上国での勤務経験はぜゼロだね」と言い放たれ、いくつかのトリッキーな質問を受け、全く答えられなかった。今でいう圧迫面接だ。

これはもうダメだと諦めて、最後の豪州人人事課長の面接に臨んだのだが、意外な「提案」を受けることになった。彼は言った。「はっきり言って経験のない君には電力局勤務は無理だ。そこで相談なのだが、今ADBでは人事・組織改革をしている。君は予算人事局には興味がないか。」私に選択肢はなかった。マニラまで行って、又してもバックオフィスとは全く本意ではなかったが、渋々内定の握手をした。翌日東京に戻って、人事部にカミングアウトをした。上司や同僚は受け入れてくれたが、「なんでわざわざマニラまで行くんだ。君は人事部長になれたかもしれないのに」と諭されもした。

勝俣氏(東電アニュアルレポート2007より:編集部)

それから、特に高揚感もなく予算人事局で粛々と働いた。東京電力からは給料をもらわない無給休職派遣だ。そんなある日のことだった。当時東京電力海外担当副社長であった勝俣元会長が別用でマニラに出張するが、マニラのホテルでの会食の末席に出席せよという指令を東京から受けた。

私には当時は雲上人であった副社長が来られるということで大変緊張したのを覚えている。会食での勝俣副社長は、噂で聞いていたのとは違い、意外にも気さくな人だった。私の身の上を簡単に申し上げるとこう言われた。「君の選択は間違ってはいない。これからは会社には色々な貢献の仕方があっても良いんだ。」

私はその言葉に深く感銘を受けた。そこで俄然気を取り直し、忍耐強く電力課長に地道なアプローチをかけ続け、周囲の支援もあり、5年後の2005年に、あまり人気のないアフガニスタンやインド・パキスタン・バングラデシュを担当する電力課への異動に成功した。その時は勝俣副社長の言葉を胸に、いつかは東電に戻り恩返しをしようと本当に思っていた。さて、これからようやく現場で修行できると喜び勇んだ頃、東京電力の人事部から呼び出しを受けた。

東京に戻ると「いい加減に戻ってくるか、退職してほしい」と言われた。それは、当たり前のことだ。社員の好き勝手にさせていたら、会社の規律が乱れる。人事権はあくまでも会社にある。それは10年間の人事部生活で身にしみた原理原則だ。

私は悩んだ。正直東京電力へ帰れる権利は大きかった。ADBは実力主義で、タフでワイルドな世界なので、いつ首になるかもしれない。家族共々、すぐにも路頭に迷うこともある。しかし、結局、東京電力に退職願いを提出した。いささか格好良すぎるかもしれないが、例え東電社員でなくなったとしても、恩返しは可能だと思った。勝俣副社長(その時には社長になっていた)の言葉が胸に染み込んでいたからだ。

ところが、東京で辞表を提出して、マニラに帰ってから、思いもかけないことが起きた。人事部幹部からメールが来た。「申し訳ないが辞職の思いは叶わなくなった。勝俣社長に報告したところ一喝され、「あいつはADBに置いとけばいいんだ」と怒られたと」。マニラでの5年前の会食以降、ほとんど接触を持たなかった社長の記憶に私のことが留まっていたこと自体が驚きだった。青天の霹靂とはこのことを言うのだろう。

結果として、私は東京電力からは離れるが、ADBを退職した時には、希望すれば東京電力に戻れるという約束を会社からいただくことになった。異例中の異例の扱いだ。私は、それから5年越しのフィールドワークの念願が叶い、インドで太陽光発電案件に没頭し、それなりの結果を残せた。皆様のおかげで、2010年当時世界最大の50万kWのメガソーラー・パーク案件を組成し、モディ首相から直接感謝状をいただいたりもした。中国の共産党本部にも出向き、太陽光発電普及をめぐる政策対話もさせていただいた。ワシントンでは世界銀行を向こうに回し、インド太陽光の為に気候変動譲許性融資基金枠を確保した。

それで二つ目のソーラーパークを組成した。途上国政府高官一行を日本にお連れして、経済産業省資源エネルギー庁、環境省、国土交通省、総務省それぞれの関係部局の方々とADBの三者会合を何度も行い、我が国のベストプラクティスを学んでいただいた。2010年9月には、財務省中尾国際局長(現ADB総裁)に謁見し、ご支援を賜った結果、各国のエネルギー大臣ら国内外500名を招いて東京プリンスホテルで太陽光発電促進のための決起集会を開いた。ADBからは黒田総裁(当時)、日本政府からは財務副大臣と経済産業副大臣にご登壇いただきご挨拶を賜った。その時のインドからの来賓が、現在AIIB副総裁兼COOであるPandian氏でもある。氏は大の親日家となった。今もインド太陽光の新機軸について話し合う仲だ。

事故後の福島第一原発(東電サイトより:編集部)

そんな絶頂期に東日本大震災が起きた。その時私はマニラ本部にいた。地震のニュースをYahooで見てやな予感がした。そのあとはご存知の通りだ。しかし、その翌日から、たまたま米国出張が重なり日本に戻ることができなかったのは今でも後悔している。若輩者ではあったが、1990年から2000年まで、原子力部門も含めて人員配置計画を遂行していた私の責任は免れ得るものではない。被災者の方々には今も本当に申し訳ない気持ちで一杯だ。

それからは、贖罪の気持ちで、ADBで、ますます再生可能エネルギーの普及に努めた。いずれは日本でと思い帰国のチャンスを伺っていたが、固定価格買取制度(FIT)に頼らない再生可能エネルギーの爆発的拡大の機は熟したと考えた2017年の6月に、ADBを退職し帰国した。あれほどの異例なお約束をいただいた東京電力に戻るべきではないかと散々悩んだが、不遜ではあるが、再生可能エネルギー100%を戦略的に実現するためには、東京電力に戻るよりも、自分で会社を立ち上げた方が会社のため、国のためになるのではないかと判断して、起業することに決め、頂いていたオプションを使わずに30年に亘る直接的な関係が終焉した。私の再生可能エネルギー普及への思いはもはや信仰に近い。

実は、2011年の秋に、私は事故後一度だけ会長室で勝俣元会長に会っている。再生可能エネルギーの普及についてお話しした。廃炉・除染・賠償の陣頭指揮に立ち、だいぶ疲れてはいたが、基本は相変わらずであった。

その後2年が経過し、ようやく私の会社経営が軌道に乗り始めたので、自分の東京電力での社員生活を総括する意味でこの記事を書いている。この場を借りて、東京電力の沢山の方々に本当に多大なご迷惑をおかけしたしたことを深くお詫びする。組織人としてはあるまじき行為をした。

この記事を書いて、勝俣元会長や私をことさらに美化するつもりはない。私への批判は甘んじて受け、贖罪は一生続ける覚悟だ。ただ、勝俣元会長の二つの言葉が今も私の胸に響いているのは紛れもない事実だ。

株式会社電力シェアリング代表 酒井直樹
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