元農水次官が長男を刺殺した事件。まず筆者の頭に浮かんだのは昔読んだメリメの『マテオ・ファルコネ』という小説だ。羽仁五郎が何かに書いていた粗筋に惹かれ、薄い文庫本を買って読んだ。半世紀も前のことで本もなくしてしまったが、その強烈な内容は今でもあらかた憶えている。
コルシカ島に親子三人で暮らす一家に警察に追われた男がやって来る。男は一人で留守番する10歳位の男の子に、金をやるから匿ってくれと頼む。男の子はそれに応じる。やがて警官が来て、男が来なかったかと聞き、首を振る男の子に警官は時計を見せて、教えてくれればこれをやるという。
男の子は時計に釣られて男の居場所を漏らしてしまう。暫くして戻った父親マテオは男の子の時計を見つけて、どうしたのかと聞く。男の子はありのままを話す。マテオは激怒し山へ男の子を連れ出す。男の子は許しを請うが、父親は「お前は村の掟を破った、神に許してもらえ」と撃ち殺してしまう。
コルシカ島だけに何やらマフィアを彷彿させる。マテオにとっては我が子の命より村の掟の方が大事だった。頭に浮かんだものの、元次官の事件とはちょっと違うようにも思われて数日間考えた。そして思い当たったのが「他人様の迷惑になることはするな」と筆者が母親から始終いわれていたこと。
母もまた親からそういわれて育ったに違いない。「他人様の迷惑になることはするな」は昔からの日本社会の掟(ルール)の一つだったと思う。他にも「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」とか「約束を守れ」や「時間を守れ」などがあり、知り合いの日本語世代の台湾人もそう教育されたと往時を懐かしむ。
幕末や明治初期に日本を訪れた外国人たちの日本と日本人に対する印象を数多集めた『逝きし世の面影』(渡辺京二)は、少々めげ気味の時に読む筆者の愛読書の一つだが、それには次のような記述がある。
1866年来日したイタリア海軍中佐V.アルミニョンも「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は他にない」と感じた一人だが、…(略)…彼は、江戸時代の庶民の生活を満ち足りたものにしているのは、ある共同体に所属することによってもたらされる相互扶助であるといっているのだ。
この一節と元次官の事件との関連を普通に考えれば、元次官夫婦も親類や近所や施設に相談が出来ていれば相互扶助に与れたのに、となるのだろうか。だが現実には、元次官夫婦が共同体に所属したくても出来ない何か、即ち「他人様に迷惑を掛けかねない凶暴な息子」を抱えていたということだ。
かのイタリア軍人の目に映った江戸時代の満ち足りた庶民の生活も、「他人様の迷惑になること」をしないで済むということ、換言すれば、暗示か明示かを問わず予め決められた「掟」を守ることを前提に成り立たっていたに違いない。でなければ「村八分」などという言葉は存在してはいまい。
女性セブン2019年6月20日号の記事として、この事件のことが詳報されていたので読んだ。見出しは「元次官長男殺害『引きこもりは恥』と考える親の問題点」で、結びは「熊沢容疑者が選んだ“解決方法”は、われわれに『議論せよ』と投げかけている」と書かれている。
筆者の感じ方とはだいぶ違うなあ、と思った。が、この記事にある元次官の発言とされることを基にしたらしい次の記述は、事件の詳細が判らなかった筆者には大いに参考になった。
大声ではしゃぐ児童の声、リズミカルな音楽、マイクから響く競技紹介のアナウンス--6月1日の午後、運動会が出す“音”について、その邸宅に住む親子は激しい口論となった。「うるせえんだよ! あの子供たち、ぶっ殺してやる!」 殺気立つ息子に対し、父親は観念したように台所へと向かい、包丁を手にとった。
刺し傷は首や胸、腹など上半身に数十箇所にも及んだ。強い殺意がみられた。午後3時半、父親は自ら110番し「息子を刺した」とハッキリと伝えたという。
「元次官は、川崎の事件の犯人と長男を重ねていました。取り調べに対し“息子が周囲に危害を加える恐れがあると思った”と供述していますが、その彼の体には長男に付けられたとみられるアザが無数にありました。元次官は“妻か私か、ほかの誰かが殺される前に殺すしかなかった”という趣旨の供述すらしているそうです」(捜査関係者)
川崎の事件とは引きこもりの51歳の男がスクルーバスを待つ小学生を多数殺傷した事件。女性セブンの記事も「被害者となった英一郎さんとの共通点がセンセーショナルに報じられているが、岩崎容疑者とは異なる点もある」とし、記事の後段すべてを引きこもりの問題に割いている。
しかし、筆者は元次官の事件は「家庭内暴力」が主で「引きこもり」は従と思う。この息子が「引きこもりでないが凶暴な息子」(この前提が成り立つかどうか判らないが)だったとしても事件は起きたし、他方、単に「おとなしい引きこもり」(こちらは成り立ちそう)だったなら起きなかったと思うからだ。
つまりは凶暴な息子が口にしたことを実行に移し、川崎の事件のような事態になりはしまいかと殺害に及んだということ。妻とも爾後のことは相談づくで、老い先短い我が身を刑務所で終える覚悟もできているであろうことは、その落ち着いた態度に表れている。よって筆者はこれを「一家無理心中」とみる。
自裁という語がある。自殺と同義だが西部遭のそれなどは、華麗なその言論生活に死を以って終止符を打ったと理解されたからか、自裁と呼ばれることが多い。その意味では、この元次官の「無理心中」も「一家自裁」ではなかろうか。自裁とすれば傍がこの事件を「議論」するのは穏当を欠くだろう。
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最後にこの事件の若干関連のある、高齢ドライバーの問題に思うことを書いて本稿を結ぶ。
多数の死傷者を出す高齢ドライバーの事故多発で、高齢者の免許保持制限の議論が盛んだ。筆者は若い時分から車を運転する自信がなかったので免許を持たない。幸い都会暮らしばかりで不自由を感じたことはないが、田舎なら困っただろう。が、最近の高齢者の事故が都会ばかりなのはどうしたことか。
川崎の事件では「一人で死ね」や「死ぬなら一人で」といった論争があるが、これも「他人様に迷惑を掛けるな」論議の範疇と思うし、公共交通の発達した都市部での高齢ドライバーの交通事故も、「他人様に迷惑を掛ける」かも知れない、との意識が当事者に旺盛だったなら防げたのではないかと思う。
そもそも車なしには日常生活が難しいような田舎なら、軽トラで田んぼの畔に落ちる程度の、相手がいない自損事故が精々で、一度に多数を死傷させてしまうような事故は起きにくかろう。年齢による一律規制などよりは、地域性を考慮した制限の工夫と運転能力の検査頻度を上げるのが効果的と思う。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。