安倍政権は「年金財政検証」を公表して参院選で民意を問え

池田 信夫

金融庁の報告書の「年金が2000万円足りない」という試算をめぐって国会が荒れ、麻生財務相(金融担当相)が報告書の受け取りを拒否する異例の事態に発展した。しかしこれは4月に金融審議会の市場ワーキンググループに提出された厚労省の資料に書かれている2017年の総務省「家計調査」のモデルケースで、今ごろ財務相が拒否してもしょうがない。

注目されるのは、厚労省が「社会保障給付が19万1880円」と想定している点だ。この数字は、厚労省が検討中の年金財政検証の標準的なケースの計算結果に近いと思われる。財政検証は5年に1度おこなわれるもので、前回は2014年6月3日に発表されたが、それからちょうど5年たっても発表の予定が決まっていない。

これは出てくる数字がかなり悪いため、発表を参議院選挙後に遅らせるものとみられているが、今までの資料からだいたい予想できる。今年の財政検証の数字を厚労省の資料から推測してみよう。

この図は年金の所得代替率(現役所得に対する比率)だが、団塊の世代(1949年度生まれ)は62.7%なのに対して、1984年度生まれは50.6%まで下がる。これは厚労省の資料にも書かれているように、マクロ経済スライドで支給が削減されるからだ。

マクロ経済スライドとは簡単にいうと、物価が上がったときはそれにスライドして支給額を増額し、物価が下がったときは減額する制度だが、デフレなのに減額が見送られたため、逆に所得代替率が上がって、団塊の世代には約9兆円の過剰給付になってしまったのだ。

団塊の世代が年金を食いつぶす

その後はどうなるのだろうか。これについて2014年の財政検証では8通りのケースが想定されたが、そのうち今年の財政検証の数字に近いと思われるのは、ケースHである。これはインフレ率0.6%、実質賃金上昇率0.7%、運用利回り(長期金利)1.7%という前提だが、2036年度に年金生活の夫婦の月収は20万円で、家計調査の数字に近い。

だが2055年には年金積立金はゼロになり、所得代替率は39%になってしまう。このようにマクロ経済スライドで給付の削減を続けても、いま40代の人が受給年齢になる2050年以降の所得代替率は30%台になってしまうのだ。

さらに現実はこれより悪い。マクロ経済スライドがほとんど発動されていないからだ。ケースHは5年前の財政検証ではもっとも悲観的なケースだが、その後は実質賃金が下がり、長期金利はゼロなので、今年の財政検証はもっと悪くなる。2040年代に積立金が枯渇して、年金制度が崩壊するケースも出るだろう。これが政府が財政検証の公表を恐れている理由だと思われる。

年金の崩壊を防ぐには、まずルール通りマクロ経済スライドを発動して過剰給付を削減する必要があるが、老人の政治的な既得権は強いので削減は困難だ。これは(給付には影響しない)金融庁の報告書に自民党が過剰反応したことでもわかる。

過剰給付を続けていると一般会計による赤字補填が大きくなり、年金の隠れ債務が積み上がる。これは厚労省の計算でも(純債務ベースで)約800兆円ある。それをファイナンスする方法は、現実的には次の5つである。

  1. 年金保険料の引き上げ
  2. 消費税の増税
  3. 年金支給の減額
  4. 支給開始年齢の引き上げ
  5. 国債の増発

このうち1は、厚生年金保険料が18.3%で固定されたので、当面は困難である。2は消費税を10%に上げても財源は大幅に足りないが、それ以上に上げることは見通せる将来には無理だろう。だから3か4(あるいは両方)は避けられない。

このうち支給開始年齢の引き上げは、すでに支給されている人に影響しないので、政治的には容易である。すでに70歳まで繰り下げ支給するオプションがある。支給額は増えるが、国民全体では支給開始までに死ぬ人が多いので採算は合う。

それでも国債の増発は避けられない。財政検証の前提は「2025年にプライマリー赤字ゼロ」という内閣府の見通しにもとづいているが、2025年以降も財政赤字を続ければ現役世代の負担軽減は可能である

問題は財政の持続可能性だが、長期金利が名目成長率より低いかぎり、財政赤字によって財政コストは発生しない、というのがブランシャールの提言である。今後も長期的にゼロ金利で借り換えることができれば、政府債務もそれほど大きく増えないだろうが、給付削減のインセンティブが弱まって問題が悪化するおそれもある。

いずれにせよ年金問題で誰もがハッピーになる答はないので、超高齢社会の負担を世代間でどう分配するかについて国民的な議論が必要だ。政府は財政検証の公表を参議院選挙後に遅らせるのではなく、早めに出して持続可能な年金制度を提案し、野党も対案を出して、選挙で国民の選択を問うべきだ。それが民主政治の本来の姿である。