「保守」は「ダサい」存在だった。
筆者の中で小泉政権誕生前まで「保守」を語る者のほとんどが高齢者か高齢者に近い中年だった印象がある。今、調べてみればそうではなかったかもしれないが「保守」と言えばやはり「復古的」「時代錯誤」「頑固」という印象が強く「新鮮」とか「賢さ」というものとは無縁だった。
若い頃の筆者の中で「保守」の印象は最悪で俗っぽく言えば「保守」とは「ダサい」存在に過ぎなかった。
では、左派(左翼・リベラル)はどうか。「左翼」という言葉は昭和の時代から既に死語になっており筆者の若者時代(ゼロ年代まで)は「左派=リベラル」であったがリベラルも特段、「新鮮」「賢い」という印象はなかったが「保守」よりマシであった。「新鮮」「賢い」という印象が強かったのはやはり「改革」である。
整理すれば「改革」は「新鮮」で「賢く」高評価であり「リベラル」は「保守」よりマシな存在ということである。
「保守」という言葉の意味を考えれば「保守」が若者から否定的にとらえられるのはある意味、当然と言えよう。
一般的理解で言えば若者とは意欲・活力・行動力があり、また、それが期待されている存在でもある。いつの時代も未来を切り開くのは若者であり「保守」とはその若者に打倒される存在に過ぎない。繰り返しになるが「保守」の言葉の意味を考えればこれは当然であり、保守と若者とは本来、相性が悪いのである。
ところが最近、この関係が変化しており「若者の保守化」が指摘されている。20代、30代の自民党支持率は総じて高い。
もっとも自民党を支持しているからと言って「若者の保守化」を指摘するのは早計だろう。自民党を支持する声で「アベノミクスで就職できました」は保守化とは言えないし憲法9条改正に賛成する若者も「保守」ではなく「国際主義」の文脈で語った方が適切な場合もあるはずである。若者を簡単に分類する姿勢自体、ある意味「大人の傲慢」と言えるだろう。
確実に言えるのは現在の若者は左派に対して不支持とまで言わなくても距離を置いているのだ。「保守」の言葉の意味、大人が抱く若者像からすればこれは驚くことである。
若者意識が強い左派
左派界隈は「若者」という記号に敏感である。2015年に安保法制に反対した「若者」から成るSEALDsの存在が殊更、強調されたのはその現れであるし、昨年、若者から人気のある音楽グループであるRADWIMPSが「HINOMARU」という曲を発表した際にリベラル系メディア・論客が総じて否定的だった(参照:朝日新聞デジタル)のも、「HINOMARU」という曲そのものというよりもこの曲を介して若者が左派から離れることを懸念したからだろう。
左派が「若者」に敏感なのは彼(女)らの界隈が「若者不足」で焦っているからでもあるが、左派に忖度して言えば左派界隈では中高年でも若者意識が強いからであろう。
一般論として中高年が若者意識を持つことは必ずしも悪いとは言えない。変に「自分はもう年だから」と控えめになるのは「謙虚」かもしれないが、一方で「卑屈」と見る人間もいるだろう。卑屈な中高年は誰も幸せにしない。
中高年に期待されている「若者意識」とは意欲・活力・行動力を忘れない意識であり、そういう人間は老けていても実に頼もしい。
一方で服装や髪型だけが「若者」で発言や振舞いが「頑固」だったり「押し付け」がましい中高年の方も少なくない。これは「若者意識」を間違ってとらえたものである。
論を戻すが、左派からすれば「若者」とは単なる世代・年齢が異なる人間ではなく「仲間」「友人」「兄弟」「家族」に近いものではないか。
左派からすれば「若者の保守化」とは自己開示できる気心しれた相手が「悪い大人」、いや「ダサい大人」に騙されているように映っているのではないか。
近年、この若者意識が強い左派は若者の支持を得ようと頑張っている。
昨年、渋谷のハロウィンでの騒動が話題になったが、このハロウィン・イベントをリベラル系メディアが積極的に宣伝していたのは左派の若者意識からくるもの(参照:アゴラ『渋谷区はハロウィンから勇気ある撤退を』)、そしてハロウィン・イベントでの暴動紛いの騒動は左派の若者意識が前面に出過ぎてしまい「大人」に期待された「秩序」意識が隠れた結果と判断するのは、少し想像が過ぎようか。
左派は若者の支持を得ようと頑張ったと思えば唐突に若者の行動・世界に難癖をつける。このアゴラでも取り上げられたViViの騒動はその一例である。それにしてもリベラル系メディア「だけ」が騒いだという事実は左派が如何に若者を意識しているかを示している。
言うまでもなくViViの騒動は単なる難癖であり、とても「大人の態度」ではない。
具体的な被害を受けているわけでもないのに若者の行動・世界に難癖をつけることは「不寛容な大人」そのものである。リベラルなのは表面だけで中身は街宣右翼というやつである。
もしかしたらViViの企画に騒いだリベラル系メディアに所属する中高年は服装や髪型が極端に「若者」であることが強調されているかもしれない。まあ、勝手な想像だが
若者を「気取る」のではなく、若者に「未来」を示せ
左派に求められているのは若者を「気取る」のではなく若者に「未来」を示すことである。
「未来を示す」とは日本の安全保障・経済・財政・社会保障に対して責任ある発言を行うことである。
今、老後資金を巡る金融庁の報告書が国会を紛糾させているが、言うまでなく老後資金が最も期待できないのが現在の若者である。筆者が若者時代からもう年金だけでは老後設計は出来ないという理解が普通だったが、今の若者はそれ以上に年金に期待していないだろう。同じ日本人なのに生誕年月が異なるだけで支給される金額が異なるというのはおかしな話である。
しかし、反発しても意味がないから、とにかく今はもう若者への投資(教育・保育等)を少しでも増やしていくしかない。
若者への投資費用を確保するためには夢想的な論議を国会に持ち込まないことが必要である。
例えば「安保法制は立憲主義に反するから廃止すべきである」はその最たるものだろう。日米同盟ほど費用対効果の高い安全保障政策はないはずだ。
左派が建設的議論を行う姿勢を示す、政策論争に真摯に臨むだけで若者の政治への関心が高まるはずである。何故なら本来、左派は若者と相性が良いからである。だから左派は襟を正すだけで良い。ここで言う「襟を正す」とは護憲派と決別することである。護憲派は左派でも右派でもない。日本国憲法を聖典化した勢力に過ぎない。その思考の偏り、排他性は街宣右翼と同レベルである。
もっとも今の左派が護憲派と決別した場合、何も残らないかもしれない。案外、若者は日本に左派はいないと考え自民党の左派的部分に着目して自民党を支持しているのかもしれない。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員