朝日新聞は10日未明の電子版で、「ハンセン病家族訴訟 控訴へ」と報じた前日朝刊の誤報が出た経緯について、栗原健太郎政治部長の署名記事で明らかにした。
ハンセン病家族訴訟 記事を誤った経緯を説明します(朝日新聞デジタル)
予想より早かった誤報釈明も、くすぶる“陰謀論”
実は、この記事が出たのは、この誤報が生まれた構造について分析した筆者の仮説記事を書きはじめた直後のことだった。これまで朝日新聞は福島原発の吉田調書を巡る大誤報を含めて、誤りを認めるまで時間がかかることのほうが多く筆者の予想より早かった。
さらには、ネット上でも朝日新聞シンパの人たちが望月衣塑子氏原案の映画『新聞記者』のストーリーを引き合いに「偽情報をつかまされたのではないか」と穿った“陰謀論”も飛び出し、同情するような向きもあった。
これは意地の悪い見方と言われるかもしれないが、一旦お詫びをした上で世間の反応も見ながら、経緯説明に少し時間を置くのではないかとさえ思ったが、朝日社内からも反安倍政権の急先鋒でおなじみ鮫島浩記者ですら「誤報を素直に認めるべき」と求める声が上がっており、今回はさすがに危機感を強めたのだろう。
ただし、鮫島記者の複数のツイートを見ると、「『官僚の方針を覆した安倍首相の英断』という参院選向けストーリー作りに加担してしまった格好だ」と述べるなど、あくまで“陰謀論”に立脚した見方だ。ちなみに鮫島氏は特報部時代に吉田調書誤報のデスクだった「戦犯」の一人だが、「おまいう」とは敢えて言うまい。
新聞の鉄則として「政府は方針を固めた」と書くのは官邸中枢のウラをとった時。「ハンセン病家族訴訟控訴へ」の誤報は政権に騙された可能性が高い。客観中立の選挙報道どころか「官僚の方針を覆した安倍首相の英断」という参院選向けストーリー作りに加担してしまった格好だ。https://t.co/OFp8Q52OIz
— 鮫島浩 (@SamejimaH) 2019年7月9日
朝日が明かした誤報の経緯
それで朝日新聞が早々と出してきた「答え」はなんだったのか。栗原政治部長の釈明によれば、取材を担当したのは政治部、科学医療部、社会部、文化くらし報道部などの記者たち。取材を進めた結果、
法務省や厚生労働省、首相官邸幹部は控訴するべきだとの意向で、あとは安倍晋三首相の政治判断が焦点でした。
としており、ここまでは鮫島氏も述べ、筆者も想定していた通りの状況だった。さらに補足するなら、一審判決から14日間の控訴期間というタイムリミットがある場合、ライバル他社との取材競争も加わって二重三重のプレッシャーが現場記者たちにのしかかる。そして、釈明記事では、
8日、「ハンセン病関連で首相が9日に対応策を表明する」という情報とともに、控訴はするものの、経済支援を検討しているとの情報を得ました。さらに8日夕、首相の意向を知りうる政権幹部に取材した結果、政府が控訴する方針は変わらないと判断しました。
などと、最終的な記事化に至るプロセスを明らかにしている(太字は筆者)。栗原部長は「私たちの取材は十分ではありませんでした」と率直に非を認めている。ただ、全体をよく読むと、掲載判断の決め手になった「首相の意向を知りうる政権幹部」に対して、少しばかり当てつけているようにも見える。
誤報は回避できたか?ターニングポイントは?
これを読むだけでは鮫島記者らの「騙された」説を裏付けるとは言えない。ただ、騙された説を完全に否定もできない。3日の党首討論の際、朝日の記者が選択的夫婦別姓への賛否を各党党首に挙手で尋ね、安倍首相だけ手をあげなかった様子が報道されたことが話題になり、首相が「印象操作はやめて」と立腹していたことからすれば、朝日にここらでお灸を据えてやろうという“意趣返し”をする動機も考えられなくはない。
しかし、仮に安倍首相サイドが朝日に誤情報を吹き込む謀略を図ったとしても、朝日新聞サイドは、意趣返しのリスクをわきまえて慎重に事に当たるべき余地はあった。
筆者が思う最大のターニングポイントは、3日の党首討論会での発言だ。誤報記事でも触れているが、安倍首相は「患者や家族のみなさんは人権が侵害され、大変つらい思いをしてきた。我々としては本当に責任を感じなければならない」と述べている。
釈明記事ではこれについて、「官邸幹部への取材で、この発言を受けても、控訴の流れに変わりはないと受け止めました」と述べているが、おそらく討論会翌日くらいまでに朝日の見立てが固まってしまったのだろう。
その過程で、取材チーム及びデスク陣は大きなバイアスを抱えたのではないか。こう書きたくはないが、安倍首相を敵視するあまり、「責任」という言葉がうわべだとどこか解釈してしまったように感じる。
というのも、朝日の政治部が首相の人格をどう見ているのかが分かる記事が誤報の3日前に出ている。政治部次長の松田京平記者が書いた「嘲笑する政治が生んだ差別、同調圧力 安倍政権の6年半」。書き出しだけでもどんなトーンがわかる(太字は筆者強調)。
笑いは人間関係の潤滑油だ。ただし、他人を見下す笑いとなれば話は違う。
安倍晋三首相は2月の自民党大会以降、民主党政権を「悪夢」と言って会場の笑いを誘うあいさつを十八番(おはこ)にしてきた。5月には、自民党の二階、麻生、細田の主流各派のパーティーに顔を出し、「悪夢」発言を繰り返した。笑いや拍手は確かに起きた。それは、さげすみの笑いだった。
確かに品のいい笑いとは言えないし、受け取った側の論評の自由はあるが、さげすみかどうかは主観的な問題だ。どちらにせよ、安倍首相のことを「人を蔑視するトンデモ野郎」と評価していると強く感じさせる。これが松田氏個人ではなく、朝日政治部内の平均的な空気であるなら、党首討論で安倍首相が述べた「(患者と家族の人権侵害に)我々としては本当に責任を感じなければならない」というコメントを組織的に邪推する空気ができていたのではないのか。
もし筆者の仮説が当たっているのであれば、慰安婦問題の誤報事件の後、朝日の記者たちが匿名で書いた懺悔本『朝日新聞 日本型組織の崩壊』(文春新書)で「硬直化した官僚主義、記者たちの肥大した自尊心」などと自己評価した社内体質は、当時の社長のクビが飛んだ「敗戦」を経ても、変わっていないのだろう。
とはいえ、冷静に考えてみれば、2001年にもハンセン病国家賠償訴訟で、今回と同じく一審の熊本地裁で国が敗訴し、当時の小泉首相が控訴を見送る政治決断をした先例がある。
この時も参院選に近い時期だったが、今回は参院選の真っ最中。百歩譲って、朝日の松田記者が書くように、安倍首相が「トンデモ野郎」だったとすれば、なおさら国民へのアピールで覆す方向に傾くと想定しやすかったはずだ。
長年の対立で政権中枢に情報源が不在?
結局、掲載の最後の決め手は、それこそ鮫島記者もいうように「政権中枢」から裏をとって判断するしかない。突き詰めれば安倍首相本人。それは無理でも菅官房長官、西村、野上、杉田の3官房副長官ら「政府首脳」だ。
そこで栗原部長の釈明記事を見ると、朝日が最後に取材したのは「首相の意向を知りうる政権幹部」とある。幹部という言葉は首脳より広義で、官房副長官らも入るかもしれないが、5人の首相補佐官(議員3人、官僚2人)、経産省出身の今井尚哉秘書官なども想起される。
それでも、結局裏を取れなかった。一方、毎日新聞は断定できずに特ダネこそ逃したが、同じ朝刊で「ハンセン病家族訴訟 政府内に控訴断念論」と報道。朝日と同じく政権批判を強めてきた毎日新聞が朝日と真逆の動きを捕捉しているあたり、毎日のほうがまだファクトに忠実に取材を積み重ね、政権中枢の情報源を確保していたのではないか。
ここでポイントになるのは政権との対立が生み出した問題だ。いまの朝日は、編集局の上層部(政治部OB)を含めて、この件で安倍首相本人はもちろん、菅官房長官ら政府首脳に直接携帯電話で聞き出せるような関係ではなくなり、政権中枢へのニュースソースが毎日などと比べても、かなり細くなっているように思える。
ちなみに安倍首相は、筆者の知己を含めて民間人でも親しければ携帯でまめに連絡を取る人のようだ。また前述の鮫島氏も民主党政権時代は菅直人首相に直接電話で話を聞き出すほど食い込んでいたそうだから、現政権と置かれた状況の違いがうかがえる。
いずれにせよ、今回の誤報は、現場の記者のミスというだけでは済まされない構造的な問題だろう。
読売新聞記者、PR会社を経て2013年独立。大手から中小企業、政党、政治家の広報PRプロジェクトに参画。2015年秋、アゴラ編集長に就任。著書に『蓮舫VS小池百合子、どうしてこんなに差がついた?』(ワニブックス)など。Twitter「@TetsuNitta」