MMT(現代金融理論)の提唱者のステファニー・ケルトン教授が来日して、日本は財政赤字を気にする必要はなく、消費増税は必要ないと言って回っている。日本やアメリカのように自国の中央銀行が法定通貨(不換紙幣)を発券している場合、財政赤字の増加分は法定通貨(不換紙幣)の増発でファイナンス出来るのだから、インフレ率がある程度まで上がるまでは財政赤字を気にすることなく、どんどん必要な財政支出をすればよいというのだ。
消費増税が争点の一つとなっている参議院選挙のタイミングでこの人がわざわざ来日して講演会等が大々的に行われることに関しては、なにやら経済理論の宣伝以外の動機が裏に潜んでいる気が私にはする。
それはさておき、アメリカにおいても、また日本においても、超金融緩和策が経済の長期停滞状況を十分に解消する力がないことが明らかになる一方、膨張する財政赤字の下で政府が財政支出の拡大に慎重になっている状況の中で、世の中にたまっている経済的な不満を一気に解決する魔法の杖としてMMTが出現したことは、私としては不本意であるが、ある意味で自然な流れなのかもしれない。
しかし、そうであるからこそMMTが経済にいかに混乱をもたらす理論であるかということをしっかり主張しなくてはいけないと思う。私は経済学者でないので経済理論というよりは一般国民の目線で、仮にMMTが政策として採用されようとしたときに、私達がどのような行動をとるか想像してみて、MMTの非現実性を示したいと思う。
今仮に、日本政府がMMTの採用を真剣に検討しているというニュースが流れたとすると、私が真っ先にすることは、円建ての銀行預金をドルかユーロ建ての預金に預け替えることだ。
MMTによれば、政府の財政需要をまかなうために、日銀は輪転機を回して、円の紙幣をどんどん刷り、それで国債を買うわけだから、円は供給過剰となって価値が下がるに決まっている。これは私だけでなくヘッジファンドなど世界中の投機家も円安を見越して円売りドル買いをするだろうから、ニュースが流れた1時間後には1ドル=300円まで円安となっているかもしれない。
気が利いた人なら高い銀行の為替手数料を節約するために、私のように銀行の外貨預金にするのではなく、FX会社の口座に円を振り込んでドルなどの外貨に換えるだろう。FXのレバレッジを1倍にしておけば、為替リスクは銀行の外貨預金と同じ倍率だ。
さらに山っ気のある人なら、FXのレバレッジを1倍ではなく、通常FX投資家が行っているようにレバレッジを20倍にして円売りドル買いをすれば、例えば円の価値が2割減価するとすれば、100万円の円預金を使って短時間で400万円の利益を得ることが出来る。もちろんFXの相場の動きは一直線に円安に向かうわけではないので、投資している期間中に利益が増えたり減ったりはするだろうが、トレンドとしては円安ドル高なのだから、安心して円売りドル買いをすることが出来よう。
MMTをするような政府であれば円安は輸出企業にとって良いことだと言って、円安を放置するかもしれないが、仮に政府が為替安定のためにドル売りの為替介入をしても、投機の大波に対しては、とても太刀打ちできないだろう。
私のような一般国民ではなく、富裕層は今でも税金対策と海外の高い運用利回りを求めて海外の不動産、保険などに投資しているが、MMTで円が減価するとなると、一斉に資産を海外へ移す動きが起きるだろう。これは日本人の持つ富を海外に流出させることになる訳で、日本経済が縮小の方向に向かってしまう。
次に、極端な円安になると、ガソリンや灯油の価格にすぐ跳ね返りが来て、急上昇するため、ドライバーや寒冷地で灯油ヒーターが欠かせない人たちは、買いだめに走ることが想像される。そしてこうした動きに不安感を国民が抱き始めると、燃料以外の輸入品や、輸入とは直接結びつかないものにまですぐに買占めが広がる。若い世代は知らないだろうが、第一次石油ショック後の狂乱物価の中では、トイレットペーパーや洗剤の買いだめ・品切れが生じた。買いだめをしたものはやがて消費してしまうだろうが、あまり値上がりしないうちに、そしてなくなってしまわないうちに買っておこうと思うのが普通の庶民の感覚ではなかろうか。
私は、MMTは法定通貨(不換紙幣)が国民の信用で成り立っていることをあまりに軽視していると思う。紙幣の価値が、中央銀行が持つ銀や金で裏打ちされている時代と違い、現在はどの国も国の信用(徴税力)だけが裏付けとなっている。MMTを実施すると言った瞬間に、この信用が根底から揺るがされるのだ。
円にしてもドルにしても、インフレによる減価で、2019年の1万円や100ドルの価値は1965年の価値のそれぞれ4分の1、8分の1にも満たなくなっている。しかしこの減価は長い時間をかけて徐々に起きたから経済に混乱はあまり生じなかった。それを、MMTのようにこれから不換紙幣をどんどん刷りますと宣言するのは、フーテンの寅さんではないが「それを言っちゃあ、おしまいよ」ではなかろうか。
有地 浩(ありち ひろし)株式会社日本決済情報センター顧問、人間経済科学研究所 代表パートナー(財務省OB)
岡山県倉敷市出身。東京大学法学部を経て1975年大蔵省(現、財務省)入省。その後、官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。財務省大臣官房審議官、世界銀行グループの国際金融公社東京駐在特別代表などを歴任し、2008年退官。 輸出入・港湾関連情報処理センター株式会社専務取締役、株式会社日本決済情報センター代表取締役社長を経て、2018年6月より同社顧問。著書に「フランス人の流儀」(大修館)(共著)。人間経済科学研究所サイト